先週礼拝(5/6)説教片々    

   

  「私は世の光である」    

         ヨハネ福音書8章12~20節

 イエスは、「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われます。一体この暗闇とは何でしょうか。今イエスにとっての闇とは、イエスを殺そうとするユダヤ教指導者達です。イエスは彼らの日頃の姿を見て、自己顕示欲が非常に強いと批判しています。彼らは神に仕えているようで実は「自分中心」なのです。これが闇の正体です。この世の様々な暗闇、罪の出所は「自分中心」なのです。これは今に始まったことではなく、アダムとエバ以後の人間すべてに当てはまります。人間が神なしで「自分だけ」で生きてきたゆえに、この世はいつも暗いのです。ですから私達が暗闇でなく光に歩むためには、「自分一人で行かない」ことです。私一人で行かず周りの人々と手を携えて、何よりも救い主イエスと共に生きてゆくのです。その時神は私達に命の光を与えて下さいます。

 イエスご自身も自分一人で行かず、常に神と共に、神とひとつであることを願われました。そのイエスの神への服従のすさまじさは「人を裁かない」という言葉からわかります。イエスはメシアとして与えられている「人を裁く権利」をすべて神に捧げたのです。そこまでしてイエスは神と密接に結びついていたかったのです。ゆえに神はみ子を「世の光」とされました。即ちこのみ子を信じる者の罪を赦し、信じる者にみ子と同じ復活の命を約束して下さいました。世界はまだ暗闇が支配していますが、私達はその中でも命の光を見い出すことが出来ます。私達はいただいたその光を周りの人々の前に掲げて行くのです。

  

先週礼拝(4/29)説教片々    

   

  「私もあなたを罪に定めない」    

        ヨハネ福音書 8章1~11節

 今日は一人の姦通の罪で捕らえられた女をイエスが罰しなかったというお話しです。ではイエスは本当に人を裁いていないのかというとそうではありません。この時、この場には三組の罪人がいました。第一は姦通の罪を犯した女です。第二はこの女を捕らえてイエスに裁かせようとした学者達です。いかにも正しいことをしているようですが、彼らはイエスを陥れ訴える口実を得ようとしている偽善家です。そして第三はこれらの出来事を見ている傍観者です。彼らはさかんにこの女を責め立てます。罪人の中で一番質が悪いのは、自分の罪に気付かないばかりか、自分は正しい人間だと思っている人です。この時イエスは女を完全に無視します。彼女はすでに自分の犯した罪を自覚しているからいいのです。しかし問題は第二、第三の罪人です。この時イエスは彼らに向かって、「罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げよ」と言われます。すると年長者から始まって次々と立ち去ります。

この時イエスはここにいた全員に罪を自覚させます。これがイエスの裁きです。決してきつい言葉を使わなくても、ここにいた全員が悔い改めて帰って行きました。これが本当の礼拝です。そして最後に残った女をイエスは励まします。「私もあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはならない」。イエスの前で罪悔い改めた者に、イエスは暖かい愛と共に、新しく生き直す目標を与えられます。私達は礼拝の度に主の前に悔い改め、主の励ましを受ける幸いを感謝しつつ、新しく出発するのです

 

 

 

 

 

先週礼拝(4/22)説教片々    

   

  「渇いている人はだれでも」    

         ヨハネ福音書7章37~39節

  イエスはエルサレムで行われている仮庵の祭りにやって来ます。その祭りの最終日、多くの人が祭司が祭壇に水をかけるのを見守る中叫びます。「渇いている人はだれでも私の所へ来て飲みなさい」。イエスの言われた渇いている人とは、魂の渇いている人です。当時ユダヤ人はローマ帝国に支配され、先行き不確かな生活を送り、また国の中はユダヤ教の律法主義によって切り捨てられた人であふれていました。このような不確かさと不安の中で人々の魂は渇いていたのです。

 これは現代も同じです。一体私達人間はどこから来てどこへ行くのでしょう。この世に偶然生まれて、死んだら終わりなのでしょうか。そう思うとせめてこの世で確かな「もの」が欲しいといろいろな「もの」を集め、それによって生きる喜びを得て渇きを癒そうとします。それはお金であったり、宝石であったり、また人々からの称賛であったり、社会的地位であったり色々です。でもそれらの「もの」は渇きを癒すどころか、手に入れるともっと欲しくなって渇きが増すだけです。

 イエスが飲ませて下さる魂の渇きを癒す「命の水」とは、「イエスとの出会い」そのものです。人がイエスの深い愛を受けた時、その渇いた魂に「命の水」が聖霊によって注がれ、生きる力が湧き上がってくるのです。その時私達は、もはや不確かな存在ではなく、イエスと共に神から来て、この地上の生活が終わったらイエスと共に神のもとに帰ってゆけるという確かな者とされるのです。

 

 

先週礼拝(4/15)説教片々    

   

  「永遠の命の言葉」    

       ヨハネ福音書 6章60~71節

 

 福音はすばらしいものです。でもそれは人間の常識ではありません。常識の内に留まろうとする人、自分の思いを第一にする人はイエスから離れてゆきます。最初たくさんいた弟子の内で最後に残ったのは12人だけでした。でもイエスは人が離れていっても動じません。なぜなら「父からお許しがなければ誰も私のもとに来ることができない」と知っていたからです。しかし神のお許しをいただいた12人の1人ユダがイエスを裏切ります。彼がイエスを裏切ったのは、イエスの語った「私の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた達の内に命はない」という言葉を聞いたからです。この意味は、「私はもうすぐ死ぬ。だがこの私を食べ飲むごとくとことん信じるならば、私の死の向こうにあなた方の復活の命がある」ということです。しかしユダが期待したのは「強いイエス」です。敵を破り自分達にパンと富を与える王です。もっと言えば「強いイエスと共にある強い自分」です。弱いイエスや弱い自分など見たくもないのです。強い自分を求める心、それがイエスを裏切るのです。

 一方たった12人になって不安をかかえる弟子達にイエスは言われます。「あなた方も離れてゆきたいか」。イエスはどんな時も弟子の自由を尊重します。その時ペトロは答えます。「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」。この瞬間ペトロは聖霊によって弟子の中で初めてイエスの本質を言い当てました。この時彼はイエスに対して、「イエスの弱さ(・・・)と自分の弱さ(・・・)の中に留まります」と告白したのです。

 

 先週礼拝(4/8)説教片々    

   

  「私が命のパンである」    

       ヨハネ福音書6章34~40節

 

 草原でイエスからお腹一杯パンを食べさせてもらった五千人の群衆はどこまでもイエスを追いかけます。そんな彼らにイエスは、「一度食べてもまたお腹のすく食物でなく、いつまでもなくならない永遠の命に至る食物がある」と言うと、人々は「それを下さい」と詰め寄ります。するとイエスは、「私が命のパンである」と答えたのです。今人々が求めているのは目に見える食物や宝です。しかし目に見えるものはいつかなくなり飽きて別の物が欲しくなります。本物の食物、宝は物や出来事ではなく、目には見えない大切なある「人格」との出会い(・・・)の中にあるのです。その出会いの最高のもの、それが神の子との出会いです。

 イエスはご自分に出会いたいと願う者すべてのそばに来て、「私を丸ごと食べなさい」と言われる程に、私達と出会って下さるのです。そして「私と出会い、私を丸ごと食べた時、あなたは無限の宝を手に入れることができる」と言われるのです。その宝というのは、永遠の命です。神が一番願っておられるのは、「神が造られたすべての人を、死んで終わりではなく神と共に永遠に生きる者としたい」ということです。そのために神は、「私の子イエスと繋がっていなさい。その人に復活の命を与えよう」と言われるのです。しかし多くの人がこれを信じません。だからイースターがあるのです。イースターの本当の意味は、神がすべての人に永遠の命を与えて下さるという約束の第一号としてみ子を復活させ、更に私達をそれに続く者とさせるという大いなる出来事です。

 

先週イースター合同礼拝(4/1)説教片々    

   

  「イエスの復活」    

       ヨハネ福音書20章24~29節 

 

 イエスが金曜日に十字架につけられた後、弟子達は大きな不安に襲われました。イエスはこの世を救う神の子ではなかったのか。ところが3日目の日曜日、彼らがユダヤ人を恐れて戸を閉じて隠れていると、突然復活のイエスが現れて、「あなた方に平和があるように」と言われたのです。弟子達は大喜びで、「やはりイエスは神の子だ」と確信しました。

 ところがここに居合わせなかった弟子のトマスは、仲間の言葉を信じません。一度死んだ人間がよみがえるはずがありません。そこでトマスは、「私はこの指をイエスの手の平の釘の跡に入れ、その脇腹に手を入れてみなければ決して信じない」と言ったのです。次の日曜日弟子達が戸を閉じた部屋に集まっていると再び復活のイエスが現れて、「あなた方に平和があるように」と言われ、トマスに向かって手の平を開けて、「あなたの指をここに入れ、手を脇腹に入れなさい」と言われました。するとこの時トマスは、イエスの体に触れることなく、イエスに向かって、「私の主よ、私の神よ」と言って、弟子の中で初めて「イエスを神」と告白しました。

 イエスを信じるためにはいくら確かめても無駄です。トマスが復活のイエスを信じたのは、信じないトマスの心を主は知り、彼のために再び来て、不信仰な彼をしかることなく丸ごと受け入れて下さったからです。彼はこの時復活の主の深い愛を知ったのです。その時彼は信じない者から信じる者へと変えられました。

 

先週礼拝(3/25)説教片々

 

 「イエスは命のパン」

      ヨハネ福音書 6章22~33節

 

 イエスに草原でパンを食べさせてもらった五千人の群衆は、イエスを王にしようと追いかけてきます。そんな彼らにイエスは言います。「朽ちる食べ物でなく,いつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物('''''''''')のために働きなさい」。これは現代の私達への警告でもあります。「あなたは今何のために働いているのか。あなたの手が掴み取る物の中にあなたの魂を満腹させるものがあるか。神の元にはあなたが働いて手に入れるものとは全く違う食べ物がある。それをいただく時、あなたの心はたとえ何がなくても満ち足り二度と飢え渇くことはない」。

 これを聞いた群衆は大喜びでその食べ物を欲しいと願って言います。「それをいただくために何をすればよいでしょうか」。これが人間の常識です。人が相手から高価なものをもらおうとする時、それに見合う代価を払わなければと考えます。ところがイエスは答えます。「神の遣わしたイエスを信じること。これがみ心にかなうただ一つの神の業である」。即ち永遠の命を受けるには、「自分の業」をすべて放棄して、ただイエスを無条件で信じるだけでいいのです。ところがこれを聞いた群衆は、「あなたを信じることができるようにしるしを下さい」と言い出します。あの奇跡のパンを食べた人々が、更なるしるしを求めるのです。結局人は何を見てもイエスを信じることはできません。彼らの心の中に神の介入を拒否する堅い心があるからです。この人々が最後に「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのです。人は自分の愚かさに最後まで気付きません。 

 

 

先週礼拝(3/18)説教片々    

   

  「五千人にパンを」    

        ヨハネ福音書 6章1~15節 

 イエスは人里離れた草原で、「飢えている五千人にパンを食べさせるにはどうしたらよいか」と弟子に尋ねます。これに対して一人は、「お金が足りない」と言い、もう一人は「ここにある五つのパンと二匹の魚では何の役にも立たない」と途方に暮れて答えます。今イエスは弟子を試しておられるのです。それは弟子として本当に力ある業を成すためには何が備わっていなくてはならないかを教えるためです。まず弟子として大切なことは、「自分は途方に暮れるばかりの無力な人間である」ことを知ることです。実は飢えた五千人を前にして無力なのは弟子だけではなく、イエスも同じでした。イエスは言われます。「子は父のなさることを見なければ自分からは何もできない」(5:19)

今イエスと弟子は同じ所に立っています。信仰はここからスタートするのです。

 イエスは次に、「神は今何をなさりたいのか」を祈って聞きます。そして聞いた通り行動します。飢えた人々を草原に座らせ、弟子が役に立たないと言った五つのパンと二匹の魚をちぎって分けると全員が満腹して余りが12のかごに一杯になりました。人が無力を知り、神のみ心を祈り求めるなら、神は人の思いをはるかに越えるみ心を成して下さいます。この時神のなさったみ心はただ五千人を満腹させるにとどまらず、この草原にイエスを家長とする神の家族を作られたことです。実はこの時食べたパンはイエスの肉です。家長が自分の命を家族に与える。これ以上の愛はありません。神はどのような人もご自分の家族として天のみ国に迎えたいのです。

 

先週礼拝(3/11)説教片々    

   

  「何もできない主」    

        ヨハネ福音書 5章19~29節

 

 イエスはご自分の力の秘密をユダヤ人に語ります。「子は父のなさることを見なければ自分からは何もできない」。これは驚くべきことです。イエスは神の子だから何でも自由にできるのではありません。むしろ逆に神に完全に服従されるがゆえに、自分からは何もできない方なのです。でもだからこそ神はこのイエスを愛し大いなる力を与えたのです。信仰において「自分からは何もできない」が、神にあって「何でもできる」に通じているのです。これがイエスの力の秘密であり、信仰者の力の秘訣です。

 その何もできないイエスが神から力をいただいて成す最大の業が「人に永遠の命を与える」ことです。このイエスが与える永遠の命は死んでから天国でいただくものではなく、生きている内に与えられるのです。そのためには神を信じなくてはなりません。信じて初めて私の内に入ってくるのです。そして信じない人は裁かれます。この裁きというのは、信じないままの状態で生き続けることです。イエスはみ国の到来は近いと言われます。私達はその時、生きている者もすでに死んだ者もすべて復活して神の前に立たねばなりません。今からその準備を怠ってはならないのです。今私達はイエスの声を聞いて信じて救われる者となるのか、それとも信じないでいつまでも不安と滅びの中にいるかが問われています。私達の裁き主は同時に十字架につかれた贖い主でもあるのです。この方が今私達を招いておられるのです。 

 

 

先週礼拝(3/4)説教片々    

   

  「38年間の苦しみ」    

         ヨハネ福音書 5章1~18節

 イエスはある安息日にエルサレムにあるベトザタの池に行きます。この池の水面が動いたとき、最初に池に入った人の病が癒やされるのです。ですからこの池の周りには大勢の病人がいました。彼らは当時のユダヤ人社会にあって単なる病人ではなく、罪に汚れた人として排除されていたのです。イエスはこの池で38年間病に苦しむ人に目を止めました。彼は体が動かず、「池の水が動いてもだれも私を池に入れてくれない」とイエスに訴えます。ここにいる人々は互いに病身の苦しみを知りながら、互いを思いやることができません。なぜならだれも助けてくれないからです。自分で自分を何とかするしかないのです。強い者が勝ち、弱い者は滅びる。まさにこの世の縮図です。

 だからこそイエスはこの場所に、安息日に来られたのです。安息日の主役は神です。神は人間と違って安息日に休みません。たえず働いておられます。その神が今、律法に切り捨てられた人、生存競争に負けて滅びるばかりの人々の只中におられるのです。そのことを示すためイエスはこの池に来られ、38年間病に苦しむ人を癒されました。もはや自分で自分を何とかしなくて大丈夫なのです。イエスご自身が生ける生命の水だからです。この方に寄り頼む者すべてが救われる新しい世界が始まったのです。イエスの癒しは単に肉体の健康回復に止まらず、霊的な新しい命、私達の命が与えられたというしるしなのです。しかし病を癒やされたこの人がイエスを裏切るのです。

 

 先週礼拝(2/25)説教片々    

   

  「あなたの息子は生きる」    

          ヨハネ福音書4章46~54節

 ユダヤ人は「しるし」を欲しがります。しかしイエスは「しるし」を見てイエスを信じる者を信用しません。ある日30kmも離れた町に住む一人の役人がイエスのもとへ来て、「私の家に来て死にかかっている息子を助けて下さい」と頼みます。彼は王の役人で非常に地位が高く、だれもが彼に従います。しかしイエスは彼に、「帰りなさい」と言って彼の家に行こうとされず、一言「あなたの息子は生きる」と言われたのです。大事なのはここです。もしこの言葉を確かめようとしたら、彼は30kmの道を帰るしかありません。イエスは今この役人を試しているのです。「あなたは家に帰って息子の様子を見てから私を信じるのか、それとも今ここで私を信じるのか」。すると役人は即座にイエスの言葉を信じます。彼はこの時自分の心配も恐れもすべてを主にゆだねたのです。そして急いで家に帰る途中で、「息子が治った」という知らせを聞きます。その治った時間を聞いた時彼は非常に驚きます。それは丁度イエスが、「あなたの息子は生きる」と言った時刻であり、同時にこの役人がイエスの言葉を信じた時間だったからです。この息子の命を救ったのはもちろん神ですが、同時にイエスの言葉を信じた父親の信仰が息子の命を救ったのです。

 私達にも様々な願いがありますが、それが成るのを見てからイエスを信じる信仰はとても弱いのです。見える物第一の信仰は、この世の見える物が崩れ去る時、何の力も持ちません。見ずして信じる信仰こそ、この世に何がおこっても決して絶望しない希望を与えるのです。

 

 礼拝(2/18)説教片々    

   

  「永遠の命に至る水」    

          ヨハネ福音書 4章7~26節

イエスは弟子達とサマリア地方のシカルにやって来ます。当時ユダヤ人とサマリア人は互いに敵対関係にありました。しかしこの時イエスは井戸に水をくみに来たサマリアの女に親しく語りかけます。彼女は非常に驚きますが相手がユダヤ人だと知ると、自分達の持つ古いイスラエルの父祖ヤコブの使った井戸を自慢します。

 イエスに従わない人には共通点があります。それは「過去」に生きているということです。先祖の家柄や自分の過去の経歴を抜きにしては今を生きられない人が多いのです。しかし神は聖霊の風のように自由に動く方です。その神の力を受けて生きる人は、「過去」だけを頼りに生きるのではなく、絶えず「未来」を向いて生きることができます。

 イエスはこの女に「『生きた水』をあげよう」と言われます。「生きた水」には、「湧き水」と「生命の水」という二つの意味があります。「生命の水」というのは、終わりの日に神が勝利した者に与える「永遠の命に至る水」です。これこそが信仰者が目ざすものです。ところがイエスはこの大切な「生命の水」を初対面の皆がきらうサマリアの女に無料で飲ませてあげようと言うのです。イエスの愛は相手を選ばず誰にでも注がれます。この水はどこから来るのでしょう。それは十字架から流れて来るイエスの命です。イエスからこの生命の水をいただく者は、この世をいつも前を向いて生きられるだけでなく、終わりの日に永遠の命をいただく者とされるのです。

 

 礼拝(2/11)説教片々    

   

  「ロバが喋った」    

          高瀬暢彦

民数記 22章22~30節

 奨励の二回目に、平信徒の聖書読みの躓きについて語ります。聖書を読んでその矛盾や説明不足(隙間)があることに気付きます。そんなとき聖書の読み方が問われ、何を基準として読むかが問われることになります。まずは平素告白している信仰告白や使徒信条に纏められた正当な教理に従って読むこと。信仰告白では、聖書が神の霊感に導かれた正本であり、聖霊によって与えられた神の言葉に基づく規範であることが明らかにされています。

 次いで聖書を貫く歴史観が、人類の救済史であって、それは先在の永遠の神の御計画に依っていることを信じて、聖書の権威を尊重して信仰的によむことでありましょう。

 聖書における聖霊の働きを整理すると、①聖書の編纂を導かれたこと、②敢えて歴史と異なる出来事や想像もつかない出来事を織り込んで、より信仰を深めるために、読む者の関心を引き起こし、一層熱心に聖書の真理を探究するように誘われていること、③無限の真実性を聖書に持たせて、通り一遍な完全な解釈などないこと。

設例のバラムとロバの出来事も、平素喋ることのないロバが喋るという出来事を通じて、読む者に何事だろうと関心を引き起こして、より緻密に聖書を読むようにとの神からのメッセージであります(Ⅱテモテ3:16)。難解なヨブ記に登場した若きエリフが語るように、より深い信仰に導くために、教育や訓練のための試練や苦悩もあるのだということを、この難解な聖書問題を解くキーの一つに加えたい。

 

 礼拝(2/4)説教片々    

   

  「新たに生まれる」    

          ヨハネ福音書3章1~16節

 

ある夜ニコデモというファリサイ派の学者であり、議員でもある人がイエスを訪ねてきます。イエスは彼の人柄を見抜いて、「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われました。この中で一番大切なのは、「新たに」という言葉です。この原語には二つの意味があって、第一は「新たに」、第二は「上から」という意味です。ニコデモはこれを第一の「新たに」と取ったためイエスに向かって、「母の胎からもう一度生まれるのは無理です」と答えます。しかしイエスが言われたのは第二の「上から」という意味だったのです。イエスはニコデモが意味を取り違えていることを知って説明するのですが、ニコデモにはイエスの言う「上から生まれる」ということが理解できません。

 彼がイエスの言葉を理解できない理由は、彼が人間の力を超えた「上から来る聖霊の力」に何も期待していないからです。神に頼らなくても目の前の現実で十分満足しているからです。これがこの国の宗教指導者達の姿でした。毎週礼拝を笹毛ながら、誰も神を必要としていないのです。神の子イエスが十字架にかけられた理由がここにあるのです。しかし神のなさることは人間より一枚も二枚も上手です。神は今キリストを十字架に上げて、人々に天を仰がせようとしておられるのです。彼らは十字架のイエスを侮辱しながら天を仰ぐのです。しかし神はそれでもいい、天を仰げと言われるのです。「神は独り子をお与えになった程に世を愛された」。この神の測り知れない深い愛によって、私達すべてが愛されているのです。

 

礼拝(1/28)説教片々    

   

  「水をぶどう酒に」    

          ヨハネ福音書 2章1~11節

 

 イエスと弟子達は結婚式に招かれます。ところが祝宴の途中でぶどう酒が足りなくなります。困った母マリアは息子のイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と訴えます。しかしイエスは、「私の時はまだ来ていません」とこれを断るのです。でもイエスは、不安の中にいる人を放っておかれる方ではありません。一度はマリアの願いを断ったイエスが立ち上がり、この家の僕に、「6つのかめに水を一杯入れなさい」と命じます。このかめの水は、律法にある清めの水です。体に付いた罪を洗い流すのです。でも水で体を洗っても人間の罪は消えません。

 今イエスがこの水がめの水をすべてぶどう酒に変えました。もう清めの水はいらなくなったのです。人間の罪は律法でではなく、イエスの十字架の血で購われる以外、救いの道はありません。清めの水は十字架に変わりました。実際このぶどう酒は、最初マリアが願った以上の量であり、その味は飲んだ人がびっくりする位おいしかったのです。それはまさに十字架の救いが、私達人間にとってどれだけすばらしい出来事なのかを表しています。これまでユダヤ人は自分を清く保つために自分で水を用意しました。しかしイエスが来られた時から、イエスの下さるおいしいぶどう酒を飲むだけで良くなったのです。イエスは常にご自分の最後を見つめて今を生きていました。そして私達にもそのよう生きろと教えておられます。このようにご自分のすべてを下さるイエスと出会うことこそ、自分の最後を見つめて、今を生きることに繋がっているのです。

 

礼拝(1/21)説教片々    

   

  「神の子羊」    

 

          ヨハネ福音書 1章19~30節

 

 イエス・キリストの先駆けとして洗礼者ヨハネが登場します。彼は全国民に罪の悔い改めの洗礼を求めました。本来洗礼というのは、異邦人がユダヤ教に改宗するための儀式であって、神の民ユダヤ人には必要ないと考えられていました。しかしヨハネのこの求めに対して多くのユダヤ人が従いました。彼には聖霊の力が与えられていたからです。そんな彼に人々は期待して尋ねます。「あなたはメシアか。エリヤか。あの預言者か」と。しかしヨハネは皆の前で正直に、「私はメシアでもエリヤでもあの預言者でもない」と三回否定します。普通人は他の人の期待に応えたいという強い思いを持っています。しかし彼は自分を偉大なものと見せず、ありのままの自分を見せるのです。「ではあなたは何者か」という問いに対して、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と答えます。声というのは発せられたら一瞬で消えます。彼は自分はそのような声であると言うのです。しかし声である彼が語る言葉を神は用いられるのです。彼は人々に、「あなた方の求めているメシアがもうすぐ来る。その方こそ世の罪を取り除く子羊である」と紹介します。

ある人が、「聖書において強い否定は、次の絶対的肯定につながる」と言いました。ヨハネが三回否定した後、「しかしあなた方の求めているメシアが来る」と言った時、彼は人々の期待に十分応えたのです。私達も「私には何もない」と言った後に「だから私はもうだめだ」と言うのか、「しかし私にはイエスがおられる」と言うのかで私達の人生は全く違うのです。「ない」の後に「ある」が続く、これが信仰の力です。

 

礼拝(1/14)説教片々   

「すべてのものは言によって」    

 

          ヨハネ福音書1章1~5節

 

 ヨハネ福音書のねらいは、イエスのこの世での姿を伝えることより、「イエスは神の子、メシアである」と宣言する神学的な面が非常に強いのです。ここが他の福音書と違うところです。ヨハネ福音書は、「初めに言があった」で始まります。このときヨハネの頭の中にあったのは、創世記の最初の言葉です。「初めに神は天地を創造された」。両方とも「初めに」で始まっています。創世記1章は、バビロン捕囚の時代、祖国を失い敵国へ引かれて行った祭司達によって書かれました。ヨハネが生きた時代も、ローマ皇帝によるキリスト教迫害の激しい時代でした。

 人々は様々な試練に合う時、ある人は偶像を造り、ある人は占いに頼りその恐るべき力から逃げようとし、ある人は文明や科学の力によってそれを乗り越えようとします。しかし「唯一の神」を信じる者は、「初め」に帰るのです。それも神が天地を創造されたすべての初めに帰るのです。「初めに言があった]、神が「光あり」と言われた瞬間に混沌と闇の世界に光が出現します。そしてこの光によって世界が新しく生まれ変わります。今ヨハネは迫害されている仲間達に、「今このことが私達に起こった。私達のかかえる暗闇に向かって、「神が光あれと言われた」と宣言するのです。その神から来た光こそみ子イエス・キリストです。いやイエス・キリスト自身が、「神の言」であると言うのです。なぜならこの方によって世界が新しく生まれ変わったからです。

 

 新年合同礼拝(1/7)説教片々    

   

  「手から水を飲んだ者」    

          士師記 7章1~7節

 

 昔イスラエルはミディアン人に苦しめられていた時、神はギデオンを士師として立てました。彼が国中に呼びかけると3万2千人が集まりました。しかし神は、「これでは多すぎる。恐れている人は帰れ」と2万2千人を帰し、残った1万人に川で水を飲ませます。そして犬のように直接口で水を飲んだ者を帰し、手で水を飲んだ3百人だけで敵の大群と戦い勝利されたのです。

 この時神はなぜ「犬のように水を飲んだ者」を帰されたのでしょう。お行儀が悪いからか、すぐ戦える用意ができていなかったからでしょうか。神は人の何げない日常の行動を見て良し悪しを判断しておられるのでしょうか。よく考えると、1万人の内300人とは全体の3%にすぎません。即ち当時は犬のように水を飲むのが普通で、手から水を飲む方が変わっていたのです。この時、神は人を減らすために変わった人を選び用いられたのです。なぜなら、人は大勢で戦って勝ったら、必ず「自分達の力で勝った」と言います。しかし少人数で勝ったら、「神様が勝たせて下さった」と神を崇め、神に従う者とされるのです。

 今私達キリスト者は日本の社会の中で少しの者にすぎず、変わった人と言われるかもしれません。しかし神が少ない私達を選んで下さったのです。私達は強いわけでも力があるわけでもありません。でもこの神が共に居て下さる時、私達は何も恐れることはありません。神が不思議な勝利を与えてくださるからです。

 

礼拝(12/31)説教片々    

   

  「シメオンとアンナ」    

          ルカ福音書2章21~38節

 

 ルカ福音書降誕物語の最後です。イエスが生まれて33日目にイエスの両親は初子を主に献げるためにエルサレムの神殿へ行きます。ここでイエスは二人の老人シメオンとアンナに出会います。シメオンは聖霊を受けて、「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という役割が与えられていました。皇帝アウグストゥスが生まれた時、彼は死ななかったのですから、アウグストゥスは救い主ではないということが、ここに暗に表されています。

しかし幼子イエスを神殿で見ととたんに、シメオンは自分の死が近いことを悟り、イエスこそ主が遣わした救い主であることを確信します。彼はイエスを腕に抱いて「今こそあなたはお言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」と主を称えます。人がその死を安らかに迎えるために必要なことは、救い主と出会うことです。今シメオンは、「私はこの目で救いを見た」と言います。今シメオンが見えているのは、何の力もない赤ん坊です。しかし神はそのイエスを通して万民のための救いをお与えになったのです。今私達もこの目で救いを見ています。それは十字架の上で殺された弱いイエスです。それはマリアにとって最もつらい出来事です。しかし神はこの十字架をもって万民を赦し、神の子として下さる道を開かれました。神の救いは難しいものではなく、今、幼子イエスがシメオンの腕の中で安らぐように、すべての人が神の恵みのみ腕の中で安らぐことなのです。

 

クリスマス礼拝(12/24)説教片々    

   

  「救い主の誕生」    

          ルカ福音書2章1~14節

 

 クリスマスおめでとうございます。ルカ福音書は処女受胎によって生まれたローマ帝国初代皇帝アウグストゥスとイエス・キリストの二人を並べて、当時の異邦人とそして私達に「あなたは神をどこに見い出すのか」と問うているのです。片や当時の世界のトップに君臨し、片やユダヤの貧しい家庭のそれも馬小屋に生まれた赤ん坊です。皇帝アウグストゥスは全領土に、税金と徴兵のための住民登録を命じます。支配者の一番の関心事は経済力と軍事力です。しかしこれらによって世界が平和になったことは一度もないのです。なぜならそこには神がおられないからです。神はこの世の上にではなく、下の下におられるとルカは言うのです。それがイエス・キリストの誕生場面です。イエスが馬小屋の飼い葉桶の中に生まれたのは、たまたまではなく、神のみ心です。天使は羊飼い達に、「飼い葉桶の中を捜せ。そうしたら必ず救い主を見い出せる」と教えます。すると彼らはすぐにみ子見つけることができたのです。

 今も天使は私達に言うのです。「飼い葉桶の中を捜せ」と。私達は決してそれ以外の所に救い主を捜してはならないのです。私達の飼い葉桶、それは私達の心の中のゴミバケツです。捨てたい物が一杯つまっている所です。でも今その中に救い主が生まれたのです。何という喜びでしょうか。神はこうしてみ子をだれでもが出会える所に置かれ、「すべての人を救う」という、どんな支配者にもできなかった大いなるみ業を成されたのです。

 

アドヴェント第3日(12/17) 礼拝説教片々     

   

  「マリアの賛歌」    

          ルカ福音書1章39~48節

 ルカ福音書は異邦人テオフィロ様のために書かれたものです。ルカがイエスの降誕物語で一番言いたいことは、神はどこに見い出せるのかということです。これまで異邦人は救い主をこの世の高貴な身分の人、上に上に求めてきたが、そこには神はおられない。神が与えた救い主が貧しい何のとりえもない少女マリアから生まれたということは、神はこの世の下の下におられるということです。

 神を求める人は必ず、神のおられると思う所へ向かって歩き出します。マリアは親戚中が下げすむエリサベトの所へ向かいます。なぜならマリアは天使の言葉によってエリサベトが神の力によって身ごもったと知ったからです。マリアはエリサベトの中に神を見い出したのです。そして二人が出会った時、エリサベトもマリアのお腹に神の力によって救い主が誕生したことを知ります。エリサベトもマリアの中に神を見い出したのです。この二人は互いにこの世にあっては何の力もない無力な者にすぎません。そんな自分達の中に神がいて下さると信じた者は、この世で最も幸いな者なのです。

 私達はなぜ毎週礼拝に行くのでしょうか。それはこのマリアとエリサベトのように、今私の中に神がおられ、あなたの中に神がおられることを互いに確認し合い、そして私達の人生の底の底にまで来て下さった神をほめたたえるためなのです。クリスマスの時は、この大いなる救いに感謝して大きな声で賛美を歌う時なのです。

 

礼拝(12/10)アドベント第2主日説教片々     

   

  「処女受胎」    

          ルカによる福音書 1章26~38節

  ルカ福音書は異邦人にイエス・キリストを伝えるために書かれました。まずルカは、当時異邦人に広く知られていた洗礼者ヨハネがイスラエルの族長イサクと預言者エリヤに匹敵する偉大な人物として描きます。当然人々が「彼こそ救い主ではないか」と期待します。しかしルカは、ヨハネの後に来る方こそ真の救い主であり、その方こそマリアの産んだイエスであると紹介するのです。

 イエスが洗礼者ヨハネに勝っているしるしが処女受胎です。マタイ福音書では夫ヨセフは妻マリアの処女受胎に苦しんだとあります。しかしルカ福音書にはそのことは出てきません。なぜなら異邦人の間では、処女受胎によって生まれる子は将来全世界を平和の内に支配する王になると信じられていたからです。天使がマリアに、「その子は偉大な人となり、彼に父ダビデの王座を下さる」と言った通りです。

 しかしこのイエスを異邦人は救い主としてすんなりとは受け入れません。なぜなら彼らは処女受胎で生まれる子は高貴な家に生まれると信じていたからです。しかし神は敢えてこの救い主の母として貧しい何のとりえもない少女マリアを選ばれました。それは当時の人々が期待する高貴な身分の王など所詮、この世の金持ちや権力者だけが幸せになるような薄っぺらな幸せしかもたらさないからです。しかし神の与える救い主は、この世の底の底の暗闇の中にいる人から始まってすべての人を救うお方です。これは人間の力では不可能です。しかし神にできないことは何一つないのです。

 

礼拝(12/3)アドベント第1主日説教片々     

   

  「二人の誕生物語」    

          ルカによる福音書 1章5~20節

 ルカの誕生物語を見ると実質的には洗礼者ヨハネとイエスの「二人の誕生物語」になっています。ヨハネの両親である祭司ザカリアと妻エリサベトは信仰深い人でしたが、子供ができませんでした。これはアブラハムとサラの物語にそっくりです。ルカは信仰の父アブラハムと祭司ザカリアを重ね合わせ、ザカリアの子ヨハネはイサクに匹敵する偉大な人物であると言うのです。しかしルカが描くザカリアは完璧な人ではありません。彼は天使から年老いた妻が子を産むと告げられた時、信じませんでした。この姿はアブラハムと同じです。どんな信仰深い人でも、神の言葉が信じきれない時があります。でも人間は信じなくても神は一度約束したことは必ず実現する。これが新約と旧約を貫く神の姿です。しかしその実現の時と方法は人間の常識をはるかに超えたものです。ザカリアは信じなかったゆえに口がきけなくなります。そして妻のお腹が大きくなるのを見ながら、自分が神の力を信じず神を小さなものにしていた事を知らされます。そして時が満ち、子が生まれた時、天使に命ぜられたヨハネという名を付けます。これは当時の常識を超える名前でした。人間の常識を超える神と出会った者は、常識を超えた生き方をもって神に答えてゆくのです。

 ルカはザカリアやアブラハムが我が子の誕生を通して信仰を新しくされたように、私達もみ子イエス・キリストの誕生を通して、私達の内で小さくされた神が大きな神とされる喜びの時が来たと言うのです。

 

礼拝(11/26)収穫感謝日合同礼拝説教片々     

   

  「良い知らせの日」    

          列王記 下 7章8~11節

 昔イスラエルの国に預言者エリシャがいました。彼は神から不思議な力を与えられ、イスラエルを敵国アラムから守っていました。ある年アラム軍が攻めてきて、イスラエルの都サマリアを兵糧攻めにし、サマリアの人々は激しい飢えに苦しみます。その時エリシャは王様に預言します。「明日の今頃、この町で小麦、大麦がとても安く売られるようになる」。しかしだれもこの預言を信じません。

 その頃、町の門の外に重い皮膚病を患う四人の人達がいました。彼らは、「このままここにいても飢えて死ぬだけだ。いっそのことアラム軍に投降しよう。もし殺されてもどうせ死ぬだけだ。もしかしたら食糧をもらえるかもしれない」とアラム軍の方へ行きます。ところが、アラム軍の兵隊は一人もいません。実は神が、アラム軍に戦車の音や大軍が攻めてくる音を聞かせたので、彼らはびっくりして皆逃げ帰ったのです。後に残ったのはたくさんの食糧、馬やロバ、着物に金や銀です。四人はさっそくお腹一杯食べ、これらのおびただしい宝物を必死で隠し自分の物にしようとしたのです。しかしふと気付きます。「私達はこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。サマリアの人々に知らせよう」。こうしてエリシャの預言通り町の人々は救われました。同じように私達がこの手にいただいた食糧もお金も自分の力も時間も、私一人の物ではありません。神様が困っている人を助けるために下さったものです。私達もこの4人に習って行きましょう。

 

礼拝(11/19)説教片々      

   

  「善にさとく悪にうとく」    

          ローマの信徒への手紙6章17~20節

 ロマ書の最後でパウロは28名の信仰の友の名をあげてあいさつをしています。彼らはユダヤ人もギリシャ人もローマ人もおり、奴隷も解放奴隷も自由人も身分の高い人もおります。しかしここには彼らの身分など何一つ書かれていません。それより彼らが福音をいかに真実に生きたかが記されています。ローマの教会はこのような人々が皆一つとなって熱く主を信じ伝道に励む教会でした。

 ところがこの教会に危機が迫っています。それは福音とは違う教えを持ちこみ、不和やつまずきを与える人々が入って来ることです。パウロはこのような人々は、「キリストに仕えないで自分の腹に仕えている」と警告します。即ち彼らはキリストのことより自分の欲しか考えず、耳ざわりのいい言葉で純朴な人々を誘惑するのです。パウロはそのようなサタンの攻撃を避ける方法として、「善にさとく、悪にうとくあれ」と教えます。「悪にうとく」とは、異なった教えを知ろうと耳を傾けたり研究したりすることです。そこからいつの間にか取り込まれていくのです。ですから注目するなら善に注目せよと言うのです。善を行う機会を逃す

ことなく捕え、実行することです。愛のある所には神が共にいて下さるからです。そして最後に祈ります。「神は間もなく、サタンをあなた方の足の下で打ち砕かれるでしょう」。人間はサタンには勝てません。しかし神はすでにサタンに勝利しておられます。私達が礼拝の中で神のみをたたえる時、そこにはすでに神の勝利があるのです。 

 

永眠者記念礼拝(11/12)説教片々    

   

  「遥かに仰ぎ見る」    

          申命記 3章23~29節

  モーセが神に呼び出され、イスラエルの民をエジプトから約束の地カナンへ導いて行けと命じられたのは、彼が80歳の時でした。それから40年の荒野の旅の末、ついにカナンを目の前に見るヨルダン川に到着します。 ところがここで神はモーセに言います。「あなたはカナンには入れない。ここで死ぬ」。これはモーセにとって思いがけない言葉でした。彼は神に祈って、「私もヨルダン川を渡らせて下さい」と頼みます。しかし神は聞いて下さいません。理由は、彼が罪を犯したからです。それも民の不平がもとで、つい犯してしまった罪なのです。

モーセ物語の結末は非常に厳しいのです。ここで聖書が伝えたいことは、たとえ偉大なモーセでさえ罪を犯す弱い人間だということです。聖書に英雄は一人もいません。ほめたたえられるのはただ一人神のみです。でもこのようなモーセを用いて神はイスラエルの民をカナンの地に導いたのです。即ちイスラエルの救いはモーセの犠牲の上に成り立っているのです。そう考えるとモーセの死と、イエスの死はよく似ています。私達の救いもイエスの十字架の犠牲の上に成り立っています。そのことによって私達も神の国に入ることができるのです。しかし神は決してモーセを見捨てたのではありません。この時、神は「お前は十分足りている」と言われました。彼の仕事はこの40年で十分だったのです。モーセはこの神の定めを受け入れて自分のなすべきことを死ぬまできちんと成し遂げます。そんな彼に神はピスガの頂からカナンを見せて下さいます。これがモーセへの神の憐れみです。

 

礼拝(11/5)説教片々

   

  「最も小さい一人のために」    

      ローマの信徒への手紙15章22~33節

 パウロはロマ書の最後に、これからの伝道計画を語ります。彼の目的地は、ローマ帝国の果てのスペインです。その途中にローマにも寄ると言います。そしてその時は、「キリストの祝福をあふれる程持っていく」と約束しています。しかし彼はここで突如、足を振り出しのエルサレムへ向けるのです。それは窮地に陥っているエルサレム教会へ、異邦人からの献金を届けるためです。でもパウロの命を狙うユダヤ人の都エルサレムに帰ることは、非常に危険なことでした。献金を届けるだけなら誰が行ってもいいのです。しかしパウロは、窮地にある人々に直接献金を届け、彼らの話を聞き、共に神の助けを祈る信仰の交わりが何より大切だと考えたのです。主が言われたように、「最も小さい者の一人に仕えること」こそ主に仕えることなのです。どんなに伝道が成功しても、小さな者を見捨てた成功には何の意味もありません。それは主を見捨てたことだからです。

 でも結局パウロはエルサレムで捕まえられます。しかし逆にそのことで彼は囚人としてローマに送られ、そこで自由に伝道できました。彼の願った通りです。でも彼がスペインへ行けたかは確かではありません。しかし今から460年ほど前、スペインから日本に最初の福音が届きました。パウロの願いは日本にまで繋がっていたのです。そして彼がローマの教会に約束したように、今私達一人一人の手に、キリストの祝福があふれるように届けられたのです。

 

礼拝(10/29)説教片々

   

  「キリストは私を通して働かれた」    

      ローマの信徒への手紙15章14~21節

 パウロは最後に教会が自立するために大切なことを教えます。第一に、教会に必要なのは「愛」です。これがなければ教会はたちゆきません。第二に、皆で「み言葉を学び合う」ことです。第三に、互いに関心を持ち合って、「戒め合い教え合ってゆく」ことです。

 次に彼は自分を、「神の福音のために祭司の役を務めている」と言います。私達も「万人祭司」としてパウロと同じ務めを担っています。祭司の役割は二つあります。第一は執り成しの祈りです。私達も自分のためだけでなく、隣人のための執り成しの祈りを献げるのです。第二は、民の供え物を神に献げることです。パウロが神に献げたのは異邦人でした。異邦人をキリストに導いて聖霊をいただけるようにする伝道の業こそ、祭司の供え物を神に献げるに匹敵するものなのです。今私達も万人祭司として、隣人をキリストに導く業を担わされているのです。

 パウロ程、祭司の役割を世界各地で行った人はいません。彼の力の秘密は、彼の病弱にありました。彼は自分の持病の癒しを祈って神の答えを聞きました。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。私達は自分の力で伝道はできません。しかし無から有を生み出す神の力があれば、「キリストが私を通して働かれた」と言えるのです。神の業が始まる時というのは、「自分に何ができるのか」と考えることをやめて、「神は自分を用いて何をなさるのか」と考え始める時なのです。

 

礼拝(10/22)説教片々

   

  「互いに相手を受け入れよ」    

      ローマの信徒への手紙15章7~13節

 パウロは最後にロマ書の総括を加えます。「だから神の栄光のためにキリストがあなた方を受け入れて下さったように(信仰義認)、あなた方も互いに相手を受け入れなさい。(信仰者の生き方)」。これがロマ書の内容なのです。ただ彼はここで手紙を終えるのに心残りがあります。それは教会内にある信仰の強い人(異邦人キリスト者)と信仰の弱い人(ユダヤ人キリスト者)の対立です。

 人間はつい目先の人間同士の違いにばかり目がいって一番大切な目標を忘れます。人は皆違います。しかしキリストは、ユダヤ人には「神の真実」を現されました。それはかつて神がダビデに約束された、永遠に続くダビデ王国です。神はダビデの子孫であるイエスを救い主として立て、すべての人をサタンから解放されました。それによってユダヤ人も異邦人も救われたのです。そして終わりの日、新しい神の国が完成し、イエスが再び王として来られます。今、教会が目ざすのは、この新しい神の国の到来です。ですから、互いに相手を受け入れて、皆心を一つにして、神の御名を賛美するのです。これこそが真の礼拝です。しかし、これは人間の力では出来ません。

パウロは最後に祈ります。「希望の源である神が、あらゆる喜びと平和とであなた方を満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせて下さるように」と。 

教会は互いに低くなり、祈りあい、聖霊の力を戴くのです。その時教会は、この世にあって神の栄光を現すものとされるのです。

 

礼拝(10/15)説教片々

   

  「自分ではなく隣人を」    

      ローマの信徒への手紙15章1~6節

 ロマ書の締め括りでパウロは、「私達強い者は」と信仰の強い者の生き方のみを語ります。神が私達に信仰を与えられたのは、人を裁いて自己満足するためでなく、「強くない者の弱さを担うため」だからです。生きることは、「担うこと」。これが聖霊を与えられた信仰者すべての生き方です。では「人を担う」とは何をするのでしょう。「おのおの善を行い、隣人を喜ばせ、互いの向上に努める」のです。ただ一つ注意することは、「隣人を喜ばせる」とは、相手の言うことを何でもしてあげることではないということです。何でもしてあげるというのは親切なようで、相手の依存性を高めて自立させなくする危険性があります。次にある「互いの向上に努める」というのは、「互いに自立することを目ざして」という意味です。「隣人を喜ばせる」というのは、互いに自立することを目ざして助けてゆくことなのです。

 そのように生きた人としてパウロはイエス・キリストをあげます。イエスが十字架でなさった「人の罪を負う」ことこそ、「隣人を喜ばせる」ことの極致です。このことによって私達は罪から解放され、自立した新しい人間として生まれ変わらせていただきました。私達が「隣人を喜ばせる」のは、決して自分の中の愛をしぼり出してなすことではなく、イエス・キリストにいただいた大いなる愛を、隣人に分けてゆくことです。このようにキリストに倣って生きる時、私達は忍耐と慰めを学び、人生に尽きない希望を持ち続けることができるのです。

 

礼拝(10/8)説教片々

   

  「生きるも死ぬも主のため」    

      ローマの信徒への手紙14章1~12節

 教会には様々な人がおり、食べ物一つ取っても考え方が違います。当時異邦人教会の中には、偶像に供えられた肉でも平気で食べる「信仰の強い人」と、律法で禁じられた肉は食べられない「信仰の弱い人」がいました。パウロは自身も、「偶像は自分が信じなければ存在しない。万物は神によって創られたのだから何を食べても身に汚れは受けない」と言って、どんな肉でも食べました。しかし教会の中で両者の対立が生まれていることを知ったパウロは、「信仰の強い人は、信仰の弱い人を受け入れなさい。批判してはなりません。信仰生活は各自が自分の心の確信に基づいて決めることです」と忠告したのです。

 パウロが教会の中で一番大切にしたことは「心を一つにし、思いを一つにして固く結び合いなさい」です。ただしこれは皆同じ考え方で「一つになれ」ではありません。教会で大切なことは食べ物ではありません。教会は、「主イエスを信じる」この一点で一つになるのです。その時「私達は生きるにしても、死ぬにしても主のものです」と皆で言える教会となるのです。

 主は「私のため」に十字架で死んで下さいました。しかし同時に、私の隣にいる「兄弟のため」にも死んで下さったのです。ゆえに私達はいつも「兄弟のため」に生きる者とされています。「私のため」と「兄弟のため」、この二つはいつも一つに結びついています。私達がこれを大切に生きる時、教会の外の人が見て、「ここには神がおられる」と認める所となるのです。

 

礼拝(10/1)説教片々

   

  「夜は更け、日は近づいた」    

      ローマの信徒への手紙13章11~14節

 パウロは「今は夜更けだ」と言います。夜更けは一日の内で最も暗い時であり、人が皆眠りこけている時です。当時はキリスト教への迫害が激しい暗黒の時代でした。その中で多くの人々が救いをあきらめ希望を失っていたのです。そんな教会の人々にパウロは、「確かに夜は更けた。しかし日は近づいた」と励ますのです。夜が暗ければ暗い程、日の出が近いように、迫害が激しければ激しい程、神の国の到来、イエスの再臨の日は近いのです。

 現在パウロがこう言ってから2000年もたちましたが、私達も終りの日が来ることを忘れずに備えておかなくてはなりません。パウロはそのために、「主イエス・キリストを着なさい」と推めます。着るということは、先ず今の古い着物を脱いで裸になることです。信仰生活は、決して重ね着ができません。本当に裸にならない人は、イエスを信じることができないのです。私達は覚えておかなくてはなりません。終わりの日、この世で人間のしたことは何一つ残りません。神が全く新しい世界を造られるからです。でも一つだけ残るものがあります。それは神がこの世でなさった、十字架と復活の出来事です。今私達が終わりの日のために備えておくことは、自分で自分を何とかするのでなく、この世で神がなさった十字架と復活のイエスをこの身にしっかり着ることです。これ以外神の国へ入る道はないのです。そしてこの主は、私達の光の武具にもなって下さいます。この主に包まれる時、この世に恐れるものは何もありません。

 

礼拝(10/1)説教片々

   

  「夜は更け、日は近づいた」    

      ローマの信徒への手紙13章11~14節

 パウロは「今は夜更けだ」と言います。夜更けは一日の内で最も暗い時であり、人が皆眠りこけている時です。当時はキリスト教への迫害が激しい暗黒の時代でした。その中で多くの人々が救いをあきらめ希望を失っていたのです。そんな教会の人々にパウロは、「確かに夜は更けた。しかし日は近づいた」と励ますのです。夜が暗ければ暗い程、日の出が近いように、迫害が激しければ激しい程、神の国の到来、イエスの再臨の日は近いのです。

 現在パウロがこう言ってから2000年もたちましたが、私達も終りの日が来ることを忘れずに備えておかなくてはなりません。パウロはそのために、「主イエス・キリストを着なさい」と推めます。着るということは、先ず今の古い着物を脱いで裸になることです。信仰生活は、決して重ね着ができません。本当に裸にならない人は、イエスを信じることができないのです。私達は覚えておかなくてはなりません。終わりの日、この世で人間のしたことは何一つ残りません。神が全く新しい世界を造られるからです。でも一つだけ残るものがあります。それは神がこの世でなさった、十字架と復活の出来事です。今私達が終わりの日のために備えておくことは、自分で自分を何とかするのでなく、この世で神がなさった十字架と復活のイエスをこの身にしっかり着ることです。これ以外神の国へ入る道はないのです。そしてこの主は、私達の光の武具にもなって下さいます。この主に包まれる時、この世に恐れるものは何もありません。

 

礼拝(9/24)説教片々

   

  「教会と国家」    

      ローマの信徒への手紙13章1~7節

 この時代ローマ帝国の中では権力はほんの一握りの人に集中し、大多数の人々には何の力もなく、キリスト者は迫害されていました。そのような中でパウロは、「人は皆上に立つ権威に従うべきです。この世に神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と言って教会に対して国家への従順を命じ、教会を権力者から守ろうとしました。こうしてキリスト教徒は迫害の中でも生き残り、ついに時至って、皇帝自身がキリスト者となり、ローマ帝国はキリスト教国となったのです。長い歴史を見ると神のなさることはゆっくりでも確実にこの世界を導き、み旨に従って権力者をも着々と変えておられるのです。

 日本も例外ではありません。戦後、日本国憲法が与えられそれまで天皇一人に集中していた権力が国民すべてに「主権在民」として渡されたのです。まさに1~2節の言葉の意味が次のように変わったのです。

「人は皆国民に従うべきです。神に由来しない国民はなく、今ある国民はすべて神によって立てられたものだからです。従って国民に逆らう者は、神の定めに背くことになります」。今この国の権威は政治のトップにいる人にあるのではなく、私達国民一人一人にあるのです。私達が、私達を立てて下さった神のみ心に従い隣人を愛する国を立ててゆくのです。そして国家権力が暴走しそうな時は歯止めをかけ軌道修正する役割を担ってゆかねばならないのです。

 

礼拝(9/17)説教片々

   

  「愛の借金」    

      ローマの信徒への手紙13章8~10節

 パウロは、「人を愛する者は律法を全うしている」と言います。当時律法は613あると言われていました。かつて律法学者であったパウロも、これらすべてを学び、教え、実行してきました。その彼が復活の主と出会い全く変わりました。主イエスが「大切なことは多くはない。いや一つだ」と言われたように、人を愛する事によって他の掟すべてが包み込まれることを知ったのです。

 この「愛を行う」という生き方は今や全世界にボランティアとして広まっています。しかし人を愛するという生き方が、「一方的に愛を与えることだ」と思っている内は非常に不完全なものにしか過ぎません。へたをするとそれは相手を見下すものにさえなります。パウロはこのことを踏まえて言います。「互いに愛し合う事の他は、誰に対しても借りがあってはなりません。」パウロは借金が嫌いだったようですが、愛に関しては、周りの人に借りがあることを忘れてはならないと言うのです。人は生まれてからこの方、周りの人の愛を受けながら生きてきました。そして何より私達がこうして生きていられるのは、主の十字架の死をもって神が私達すべての罪を赦して下さったからです。神は人間の弱さを十分ご存知です。私達は喜んで神と人に愛の借金をしてゆけばいいのです。そして借りたものを少しずつ返すつもりで「隣人を愛してゆく」のです。するとその時、私達は613ある律法すべてを全うするに等しい神に最も喜ばれる者とされるのです。

 

礼拝(9/10)説教片々

   

  「喜びも涙も共に」    

      ローマの信徒への手紙12章9~21節

 パウロは教会の人々に、「隣人を愛し、敵をも愛しなさい」という愛の実行命令を出します。しかしユダヤ教徒であった時のパウロは、「隣人を愛し、敵を憎む」という生き方しかして来ませんでした。そんな彼が復活の主と出会って変わったのです。イエス・キリストの生き様はまさに「隣人を愛し、敵をも愛する」という生き方そのものでした。そして彼はその驚くべき愛を十字架を通して受けたのです。イエスの愛を受けるのに資格はいりません。望む者はだれでもこの愛を受けられるのです。パウロはただこの愛を受けた者に、その愛を少し分けてあげなさいと言うのです。

 愛を分けるというのは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」ということです。即ち、徹底的に相手に寄り添うことです。泣いている人が求めていることは、ほとんどの場合ただ聞いてほしいということです。共感こそが大きな支えになるのです。そして解決方法は自分で考える。それが自立した人間です。人に寄り添う時大切なことは、「今泣いている人にも神の愛が注がれ、必ず神が立ち上がらせて下さる」と信じることです。この神の力を信じる時、私達は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができます。パウロはこのように相手に寄り添う愛の人間関係を、あなたの家族、隣人、そして敵との間に築きなさいと言うのです。私達の真の敵、それはサタンです。サタンに勝つ方法は愛だけです。神は私達に真の勝利の方法を教えて下さったのです。

 

礼拝(9/3)説教片々

   

  「各自は互いに部分である」    

      ローマの信徒への手紙12章3~8節

 キリスト者の生活でまず気をつけなくてはならないのは、「自分を課題に評価してはならない」ことです。当時の教会には、「霊的力のある人」と呼ばれた異言を語る人達がいました。彼らはその力を誇り、教会で一番偉いとふるまっていたのです。しかしパウロは、霊的賜物とはある特定の人にだけ与えられるものではなく、主イエスを信じたすべての人に与えられると言います。霊的賜物とはどのようなものなのかを、パウロは一枚の絵を描いて見せます。それは一人の人の体です。体にはいろいろな部分があり、皆その働きは別です。それと同様、教会の一人一人もその体の一部分であって皆違う賜物をいただいているのです。教会の中で力ある人もその一部分にすぎず、その人が思い上がれば、口や耳ばかり大きな教会になっておかしいのです。またどんなに小さな部分もなくては体は成りたちません。教会はそこにいる一人一人が違う賜物をいただいた、かけがえのない部分であって、全体でキリストの体を作っているのです。

 パウロは教会の七つの霊的働きを上げています。この中には当時の教会で一番だった「異言」は入っていません。一番は「預言」です。教会の働きの一番は神から預かった言葉を人々にわかるように伝えることです。第二は「奉仕」です。これは当時奴隷のする仕事でした。この世が一番低く見た働きをパウロは二番目に置くのです。奉仕も主イエスが私達人間に仕えて下さった大切な霊的働きなのです。教会の働きはこの世の価値をひっくり返す所にあるのです。

 

礼拝(8/27)説教片々

   

  「何が神の御心なのか」    

      ローマの信徒への手紙12章1~2節

 12章からテーマが変わり、信仰者すべての生き方について書かれています。信仰者にとって一番大切なことは「礼拝」です。実はパウロがここで言う「礼拝」とは、今までになかった全く新しい礼拝なのです。彼はその礼拝を「あなた方のなすべき(・・・・)礼拝」と言います。即ち当時パウロが見た様々な宗教は、「なすべきでない礼拝」を行っていたからです。礼拝の中に様々な差別があったり、人が神にご利益ばかりを求めているのです。しかしパウロは、本当の礼拝とは、「心を新たにして自分を神に変えていただくこと」だと言うのです。そこには何の差別もなく、人が神に要求するだけでなく、逆に「何が神のみ心で、何が神に喜ばれるのか」を問いながら神の前に出るのです。私達が今行っている礼拝は、このような礼拝なのです。

 私達のなすべき礼拝とは、「献げる」ことです。しかしそれはお金や物ではなく、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえ」として献げるのです。私達ができる神への献げ物の第一は、「私達自身」なのです。そしてこの「私達自身を献げる」という生き方は、日曜日の礼拝だけでなく、その人の日々の生活、人生すべてを変えてゆくのです。ただ一つ気をつけることは、私達が「自分を献げる」ことは、イエスがご自分を私達のために献げて下さったことへの感謝からのみ来るということです。私達はこの世始まって以来最も大いなる愛をイエスを通して神から受けたのです。今私達が生きており、永遠の命を約束されていることを感謝しつつ神に自分を献げてゆくのです。

 

礼拝(8/20)説教片々

   

  「死人の中からの復活」    

      ローマの信徒への手紙11章11~16節

 ロマ書を読むと、パウロが同胞ユダヤ人の救いのためにどれだけ悩んでいたかがよくわかります。彼はそのような中で申命記32章を読んで答えを見い出しました。それは、「神は先に異邦人を救ってユダヤ人にねたみを起こさせ、彼らを奮起させようとしている」ということです。 パウロにとって本当は不本意だった異邦人伝道が、実は彼の力で果たせなかった同胞ユダヤ人を救う唯一の道だったのです。彼はもう自分の道に迷いません。ただひたすら異邦人伝道に励めば、ますますユダヤ人がねたんで彼らの救いの日が近くなるからです。神の救いは不思議な形で進展します。決して一本調子ではなく、いつも二本三本の糸がよられたように進んでゆくのです。

  そしてパウロは、この頑ななユダヤ人が救われることについて、「彼らが受け入れられることは死者の中の命でなくて何でしょう」と言うのです。実際ユダヤ人がイエス・キリストを信じるということは、死者の甦りに匹敵する程むずかしいことをパウロは知っています。しかしイエスが死んで葬られましたが、三日目によみ返られたのです。これが私達の神の力です。この方にあっては、死んだ人間をよみ返らせることも、この世で不可能だと思う事柄を、逆転させることも、み心のままにできるのです。信仰者の最大の力は、復活信仰です。パウロは、復活の力を信じ、同胞の救いを神にゆだねて異邦人伝道に励んだのです。

  

礼拝(8/13)説教片々

   

  「主よ、お話しください」    

      イザヤ書43章1節、ヨハネ福音書3章20節

竹内 拓神学生

 私たちが神様にいろいろお願いをし、祈り求めても、それが聞き入れられない時は、ともすれば神様が見えなくなり、嘆きや不満につながることがあります。それは、神様と私たち人間との関係を、神様は助け主、私たちはその対象と決めつけているからではないでしょうか。神様は私たちを単なる助けの対象として造られたのではないのです。

神様は「あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と言われています。その意味は、私たちは神様にとって他人ではなく神様の家族であるということであり、家族の一員として神様がなそうとしておられる業に参加する者となることが求められているということなのです。私たち一人ひとりは正にそのために造られたのだと思います。

このことを自覚し認識すると、神様のなさること、お話になることの意味がこれまでと全く異なって受け止められるようになります。引用した「二人の王子の物語」によっても明らかなように、神様が私たちの求めに対し応答を遅らせておられるのは、私たちが神様にもっと近づき、神様の真意を聞きに来てほしいと願っておられるからなのです。遠慮なく「主よ、お話しください」と叫びつつ神様にもっと近づいていきましょう。

そして、万一そのような気力をなくした場合においても、神様の方からこちらに近づいて来て、一緒に食事をしながら真意を明らかにしてくださいます。(黙示3:22)このような神様の深い愛とご配慮に感謝しつつ、歩みを続けたいと思います。

 

礼拝(8/6)平和聖日合同礼拝説教片々

   

  「別れ道に立って考える」    

      鈴木伶子

 私は6歳の時に東京大空襲を経験しました。無数の焼夷弾が落とされ、東京の下町では一晩で十万人の人が死にました。私の家では二日前に下の妹が生まれたばかりで、遠くへ逃げることができず、隣のコンクリート造りの教会に逃げるのが精いっぱいでした。下町から燃え広がってきた火事が本郷にも迫ってきて、近所の人が焼け死んだという話が聞こえたりして、私たち家族がいた教会の事務室でも熱気が感じられるほどでした。父は、私と三歳の妹を膝に乗せ、自分のオーバーで私たちをすっぽりくるみ、言いました。「伶子と祐子は今から天国に行くんだよ。二人は、そこで天使になって、天国の美しい野原を飛び回るんだ。」そして、いつものようにブラームスの子守歌を歌ってくれました。「眠れよ吾子(あこ)()(めぐ)りて、(うるわ)しの花咲けり。眠れ今は、いと安けく、(あした)窓に()い来るまで。」それを聞きながら私は眠りました。そして奇跡的に生き延びました。でも、その晩に、私が三歳まで過ごした亀戸の教会の人はほとんど全員焼け死んだのです。私も大きくなるまで星に殺される悪夢に脅かされました。世界には、今も、戦争で殺される子どもが大勢います。戦争はあってはならないものです。

 今日の聖書は、私たちの前に命の道と死の道があるが、神様が「命の道を選びなさい」とお命じになると告げています。戦争や貧困で命を落とす人が無くなるために働くことが神様の御心です。

 

礼拝(7/30)説教片々

   

  「一日中手を差し伸べる神    

      ローマの信徒への手紙10章14~21節

  人が主を信じるためには宣べ伝える人がいなくてはなりません。パウロは、「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか」(イザヤ52:7) と言って、神の言葉を伝える者の働きは神にとっても人にとっても大切な存在であると言います。これが教会の使命です。私達が伝えるのは、「和解の福音」です。キリストは神と人との間を和解させるために命を捨てて下さいました。その主に救われた私達がなすべきことは人と人との間に和解を作り出すことです。今こそ私達は日本や世界の平和のために、「和解の福音」を伝えてゆく時なのです。

 しかしそれは簡単なことではありません。パウロがどんなに努力しても同胞ユダヤ人はキリストを受け入れません。しかし彼が最後まであきらめなかったのは、「自分は神に遣わされた」と信じたからです。神が自分を遣わされたのなら必ず神が力を与えて下さるのです。そのために彼は聖書を読みました。そしてその中から驚くべき言葉を見い出すのです。

 今ユダヤ人がキリストを信じないのは、「神が異邦人を先に救ってユダヤ人にねたみを起こさせるためだ」(申命記32:21)と言うのです。まさにその通りパウロの伝道によって異邦人がどんどん救われているのです。では神はユダヤ人を見捨てたのでしょうか。そうではありません。「神は不従順で反抗する民に一日中手を差し伸べた」(イザヤ65:2)とあるのです。神はどんな頑なな人をも見捨てていません。私達は決してあきらめる必要はないのです。

 

 

礼拝(7/23)説教片々

   

  「言葉はあなたの近くにある」    

      ローマの信徒への手紙10章5~13節

 パウロは同胞ユダヤ人の救いについて悩んでいました。彼は苦しみに合う度に神に祈り、そして旧約聖書を何回も読みました。もちろん彼は元律法学者ですから、旧約聖書の内容はよく知っていました。しかしキリスト者になって読んだ時、旧約聖書の中に、すでにキリストによる救いが、隠されていることを発見したのです。

 彼は申命記の中でモーセの語る言葉に出会います。「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(申命記30:14)。ここで言われているのは、律法は極めて身近な存在だということです。パウロはこれを読んで、これこそ福音の前ぶれだということを見い出したのです。即ち救いとは、自分でがんばって天に昇ったり、陰府にまで下ったりして得なくてはならないような難しいものではない。なぜならもうすでにイエス・キリストが天の高きも、陰府の低きもすべて究め尽され、私達の救いに必要なことはすべて成し遂げて下さったのだから、私達はただ一人イエス・キリストを信じるだけでいいのです。今、神のみ言葉なるイエス・キリストは、あなたの口、あなたの心、あなたの一番近くにあるのです。ですから私達は、ただ口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを復活させられたと信じるならば救われるのです。この信仰に立つ者は、「だれも失望することがありません」(イザヤ28:16)。「主のみ名を呼び求めるものはだれでも救われるのです」(ヨエル3:5)。パウロはこれらのみ言葉と出会い、再び立ち上がるのです。

 

礼拝(7/16)説教片々

   

  「神の恵みの選び」    

      ローマの信徒への手紙9章1~5節

 パウロには、深い悲しみと心の痛みがありました。それは同胞ユダヤ人の救いについてです。かつてパウロはキリスト者を迫害していましたが、ある日突然キリスト教に転向しました。仲間は怒って彼を迫害しました。それでも彼はひるむことなく同胞にキリスト教を伝道し続けたのです。彼は、「同胞のためなら神に見捨てられた者になってもよい」とさえ言うのです。事実彼は何度も捕まって残酷な鞭打ち刑を受けました。人の愛の極みは、自分の命さえ顧みないのです。

 彼がここまでできたのは、彼自身が命を顧みない愛を受けたからです。イエスは私達を救うため、自分が神に見捨てられる道を選ばれました。神に見捨てられたのは、この世でイエス・キリストただ一人です。これがイエスの受けた十字架の上での神の裁きの本当の意味です。ゆえに神は、他の誰一人をも見捨てておられません。人類すべてが、「神の恵みの選び」のうちに入れられたのです。ここまで神に愛されて今の私達の命があるのです。

 神は誰一人見捨てておられない。だからパウロは同胞の救いを諦めません。しかし、現実はこれほどまでのパウロの愛でも同胞を救うことはできませんでした。人の力で人を変えることはできないのです。しかしパウロは神の愛だけを信じ、キリストの御名をほめたたえて伝道に励みました。すると思わぬ事にユダヤ人を越えて異邦人が救われたのです。すべては神のみ旨のままに進んでゆくのです。無駄になることは一つもありません。

 

部落解放祈りの日礼拝(7/9)説教片々

   

  「最も小さい一人のために」    

      ローマの信徒への手紙 15章22~33節

 江戸時代まであった身分制度は、明治に入り廃止されましたが、人の心はすぐには変わりません。被差別部落の人々はその後長い間差別に苦しんできました。そんな彼らが立ち上がるきっかけになったのが聖書です。エジプトで奴隷とされ苦しんできたイスラエル民族と自分達とを重ね合わせ、その民をエジプトから脱出させて下さった神を信じたのです。彼らはこの時から自分達の尊厳を取り戻し、解放運動に立ち上がりました。み言葉には、何百年と迫害されてきた人々を立ち上がらせる力があります。ところが聖書を読み教会へ行った被差別部落の人々に対し、当時の日本の教会は聖礼典という最も大切な場所で、彼らを差別したのです。結局彼らは教会を去りました。

 主は言われます。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしたことなのである」(マタイ25:40) 主はこの世で最も小さくされている一人一人を覚えておられ、「私の兄弟」と呼び、その一人にしたことは自分にしてくれたごとくに喜ばれるのです。私達はこの主の眼差しを忘れてはなりません。パウロもまさにそのような人でした。異邦人伝道が快調に進む中、エルサレム教会が迫害に苦しんでいると知ったとたん、伝道を中止して援助金を持って命がけでエルサレムへ帰ります。どんなに伝道が成功しても、小さな者を見捨てた上での成功には何の意味もないからです。しかしこれは自分一人でできることではありません。彼は教会の人々に「自分のために熱心に祈って欲しい」と頼みます。祈って聖霊の力をいただいて初めて成しうるのです。

 

礼拝(7/2)説教片々

   

  「神の愛の勝利」    

      ローマの信徒への手紙8章31~39節

 イスラエル民族は大国によって国を奪われ、民は殺されたり捕虜とされたり逃げ廻ったりという辛い歴史の中から、「見えるものに対する希望は希望ではない」ということを身をもって知りました。しかし彼らは絶望しませんでした。なぜなら「見えないものこそ真の希望だ」ということを見い出したからです。その見えないものとは、「信仰・希望・愛」なのです。この世は人間の罪ですっかり汚れてしまいました。その極みが、神のみ子を十字架につけるという出来事です。ここまで深い罪があるでしょうか。しかしパウロは、この深い罪のしるしである十字架の中に、神の愛を見い出したのです。これは神が我が子を十字架につけてまでも人間を救おうとなさったことなのです。神は裏切り続けた人間を見捨てられません。神は十字架で死んだイエスを3日目で復活させました。その復活の主は、今神の右に座って私達のために執り成して下さるのです。

 私達はちっぽけな人間にすぎません。しかし神はここまで私達を愛して下さるのです。「神が私達の味方なのです」。私達はたとえ何が起ころうとも恐れるものは何もありません。パウロは、「私達は私達を愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています(・・・・・・)」と言います。即ち、私達は今かかえている試練に、余裕しゃくしゃくで勝利している(・・・・)のです。もちろん現実はまだ勝利していなくても、これを乗り越えられる時が必ず来るのです。ただし、神に愛されていることを忘れたとたんに、私達の中に不安やあせりや混乱が生まれます。