先週礼拝(8/13)説教片々

   

  「主よ、お話しください」    

      イザヤ書43章1節、ヨハネ福音書3章20節

竹内 拓神学生

 私たちが神様にいろいろお願いをし、祈り求めても、それが聞き入れられない時は、ともすれば神様が見えなくなり、嘆きや不満につながることがあります。それは、神様と私たち人間との関係を、神様は助け主、私たちはその対象と決めつけているからではないでしょうか。神様は私たちを単なる助けの対象として造られたのではないのです。

神様は「あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と言われています。その意味は、私たちは神様にとって他人ではなく神様の家族であるということであり、家族の一員として神様がなそうとしておられる業に参加する者となることが求められているということなのです。私たち一人ひとりは正にそのために造られたのだと思います。

このことを自覚し認識すると、神様のなさること、お話になることの意味がこれまでと全く異なって受け止められるようになります。引用した「二人の王子の物語」によっても明らかなように、神様が私たちの求めに対し応答を遅らせておられるのは、私たちが神様にもっと近づき、神様の真意を聞きに来てほしいと願っておられるからなのです。遠慮なく「主よ、お話しください」と叫びつつ神様にもっと近づいていきましょう。

そして、万一そのような気力をなくした場合においても、神様の方からこちらに近づいて来て、一緒に食事をしながら真意を明らかにしてくださいます。(黙示3:22)このような神様の深い愛とご配慮に感謝しつつ、歩みを続けたいと思います。

 

礼拝(8/6)平和聖日合同礼拝説教片々

   

  「別れ道に立って考える」    

      鈴木伶子

 私は6歳の時に東京大空襲を経験しました。無数の焼夷弾が落とされ、東京の下町では一晩で十万人の人が死にました。私の家では二日前に下の妹が生まれたばかりで、遠くへ逃げることができず、隣のコンクリート造りの教会に逃げるのが精いっぱいでした。下町から燃え広がってきた火事が本郷にも迫ってきて、近所の人が焼け死んだという話が聞こえたりして、私たち家族がいた教会の事務室でも熱気が感じられるほどでした。父は、私と三歳の妹を膝に乗せ、自分のオーバーで私たちをすっぽりくるみ、言いました。「伶子と祐子は今から天国に行くんだよ。二人は、そこで天使になって、天国の美しい野原を飛び回るんだ。」そして、いつものようにブラームスの子守歌を歌ってくれました。「眠れよ吾子(あこ)()(めぐ)りて、(うるわ)しの花咲けり。眠れ今は、いと安けく、(あした)窓に()い来るまで。」それを聞きながら私は眠りました。そして奇跡的に生き延びました。でも、その晩に、私が三歳まで過ごした亀戸の教会の人はほとんど全員焼け死んだのです。私も大きくなるまで星に殺される悪夢に脅かされました。世界には、今も、戦争で殺される子どもが大勢います。戦争はあってはならないものです。

 今日の聖書は、私たちの前に命の道と死の道があるが、神様が「命の道を選びなさい」とお命じになると告げています。戦争や貧困で命を落とす人が無くなるために働くことが神様の御心です。

 

礼拝(7/30)説教片々

   

  「一日中手を差し伸べる神    

      ローマの信徒への手紙10章14~21節

  人が主を信じるためには宣べ伝える人がいなくてはなりません。パウロは、「良い知らせを伝える者の足は何と美しいことか」(イザヤ52:7) と言って、神の言葉を伝える者の働きは神にとっても人にとっても大切な存在であると言います。これが教会の使命です。私達が伝えるのは、「和解の福音」です。キリストは神と人との間を和解させるために命を捨てて下さいました。その主に救われた私達がなすべきことは人と人との間に和解を作り出すことです。今こそ私達は日本や世界の平和のために、「和解の福音」を伝えてゆく時なのです。

 しかしそれは簡単なことではありません。パウロがどんなに努力しても同胞ユダヤ人はキリストを受け入れません。しかし彼が最後まであきらめなかったのは、「自分は神に遣わされた」と信じたからです。神が自分を遣わされたのなら必ず神が力を与えて下さるのです。そのために彼は聖書を読みました。そしてその中から驚くべき言葉を見い出すのです。

 今ユダヤ人がキリストを信じないのは、「神が異邦人を先に救ってユダヤ人にねたみを起こさせるためだ」(申命記32:21)と言うのです。まさにその通りパウロの伝道によって異邦人がどんどん救われているのです。では神はユダヤ人を見捨てたのでしょうか。そうではありません。「神は不従順で反抗する民に一日中手を差し伸べた」(イザヤ65:2)とあるのです。神はどんな頑なな人をも見捨てていません。私達は決してあきらめる必要はないのです。

 

 

礼拝(7/23)説教片々

   

  「言葉はあなたの近くにある」    

      ローマの信徒への手紙10章5~13節

 パウロは同胞ユダヤ人の救いについて悩んでいました。彼は苦しみに合う度に神に祈り、そして旧約聖書を何回も読みました。もちろん彼は元律法学者ですから、旧約聖書の内容はよく知っていました。しかしキリスト者になって読んだ時、旧約聖書の中に、すでにキリストによる救いが、隠されていることを発見したのです。

 彼は申命記の中でモーセの語る言葉に出会います。「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(申命記30:14)。ここで言われているのは、律法は極めて身近な存在だということです。パウロはこれを読んで、これこそ福音の前ぶれだということを見い出したのです。即ち救いとは、自分でがんばって天に昇ったり、陰府にまで下ったりして得なくてはならないような難しいものではない。なぜならもうすでにイエス・キリストが天の高きも、陰府の低きもすべて究め尽され、私達の救いに必要なことはすべて成し遂げて下さったのだから、私達はただ一人イエス・キリストを信じるだけでいいのです。今、神のみ言葉なるイエス・キリストは、あなたの口、あなたの心、あなたの一番近くにあるのです。ですから私達は、ただ口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを復活させられたと信じるならば救われるのです。この信仰に立つ者は、「だれも失望することがありません」(イザヤ28:16)。「主のみ名を呼び求めるものはだれでも救われるのです」(ヨエル3:5)。パウロはこれらのみ言葉と出会い、再び立ち上がるのです。

 

礼拝(7/16)説教片々

   

  「神の恵みの選び」    

      ローマの信徒への手紙9章1~5節

 パウロには、深い悲しみと心の痛みがありました。それは同胞ユダヤ人の救いについてです。かつてパウロはキリスト者を迫害していましたが、ある日突然キリスト教に転向しました。仲間は怒って彼を迫害しました。それでも彼はひるむことなく同胞にキリスト教を伝道し続けたのです。彼は、「同胞のためなら神に見捨てられた者になってもよい」とさえ言うのです。事実彼は何度も捕まって残酷な鞭打ち刑を受けました。人の愛の極みは、自分の命さえ顧みないのです。

 彼がここまでできたのは、彼自身が命を顧みない愛を受けたからです。イエスは私達を救うため、自分が神に見捨てられる道を選ばれました。神に見捨てられたのは、この世でイエス・キリストただ一人です。これがイエスの受けた十字架の上での神の裁きの本当の意味です。ゆえに神は、他の誰一人をも見捨てておられません。人類すべてが、「神の恵みの選び」のうちに入れられたのです。ここまで神に愛されて今の私達の命があるのです。

 神は誰一人見捨てておられない。だからパウロは同胞の救いを諦めません。しかし、現実はこれほどまでのパウロの愛でも同胞を救うことはできませんでした。人の力で人を変えることはできないのです。しかしパウロは神の愛だけを信じ、キリストの御名をほめたたえて伝道に励みました。すると思わぬ事にユダヤ人を越えて異邦人が救われたのです。すべては神のみ旨のままに進んでゆくのです。無駄になることは一つもありません。

 

部落解放祈りの日礼拝(7/9)説教片々

   

  「最も小さい一人のために」    

      ローマの信徒への手紙 15章22~33節

 江戸時代まであった身分制度は、明治に入り廃止されましたが、人の心はすぐには変わりません。被差別部落の人々はその後長い間差別に苦しんできました。そんな彼らが立ち上がるきっかけになったのが聖書です。エジプトで奴隷とされ苦しんできたイスラエル民族と自分達とを重ね合わせ、その民をエジプトから脱出させて下さった神を信じたのです。彼らはこの時から自分達の尊厳を取り戻し、解放運動に立ち上がりました。み言葉には、何百年と迫害されてきた人々を立ち上がらせる力があります。ところが聖書を読み教会へ行った被差別部落の人々に対し、当時の日本の教会は聖礼典という最も大切な場所で、彼らを差別したのです。結局彼らは教会を去りました。

 主は言われます。「私の兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、私にしたことなのである」(マタイ25:40) 主はこの世で最も小さくされている一人一人を覚えておられ、「私の兄弟」と呼び、その一人にしたことは自分にしてくれたごとくに喜ばれるのです。私達はこの主の眼差しを忘れてはなりません。パウロもまさにそのような人でした。異邦人伝道が快調に進む中、エルサレム教会が迫害に苦しんでいると知ったとたん、伝道を中止して援助金を持って命がけでエルサレムへ帰ります。どんなに伝道が成功しても、小さな者を見捨てた上での成功には何の意味もないからです。しかしこれは自分一人でできることではありません。彼は教会の人々に「自分のために熱心に祈って欲しい」と頼みます。祈って聖霊の力をいただいて初めて成しうるのです。

 

礼拝(7/2)説教片々

   

  「神の愛の勝利」    

      ローマの信徒への手紙8章31~39節

 イスラエル民族は大国によって国を奪われ、民は殺されたり捕虜とされたり逃げ廻ったりという辛い歴史の中から、「見えるものに対する希望は希望ではない」ということを身をもって知りました。しかし彼らは絶望しませんでした。なぜなら「見えないものこそ真の希望だ」ということを見い出したからです。その見えないものとは、「信仰・希望・愛」なのです。この世は人間の罪ですっかり汚れてしまいました。その極みが、神のみ子を十字架につけるという出来事です。ここまで深い罪があるでしょうか。しかしパウロは、この深い罪のしるしである十字架の中に、神の愛を見い出したのです。これは神が我が子を十字架につけてまでも人間を救おうとなさったことなのです。神は裏切り続けた人間を見捨てられません。神は十字架で死んだイエスを3日目で復活させました。その復活の主は、今神の右に座って私達のために執り成して下さるのです。

 私達はちっぽけな人間にすぎません。しかし神はここまで私達を愛して下さるのです。「神が私達の味方なのです」。私達はたとえ何が起ころうとも恐れるものは何もありません。パウロは、「私達は私達を愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています(・・・・・・)」と言います。即ち、私達は今かかえている試練に、余裕しゃくしゃくで勝利している(・・・・)のです。もちろん現実はまだ勝利していなくても、これを乗り越えられる時が必ず来るのです。ただし、神に愛されていることを忘れたとたんに、私達の中に不安やあせりや混乱が生まれます。

 

礼拝(6/25)説教片々

   

  「御霊のとりなし」    

       ローマの信徒への手紙 8章26~30節

 神は私達一人一人をご存知で、一人一人にご計画があります。それは私達を「み子に似た者にしよう」というものです。神は終わりの日に私達をイエスと同じ復活の命を与え、この世にあってはイエスの十字架に与る者とされているのです。イエスは十字架の苦しみを、神が全被造物を救うという大逆転を起こす場として神に差し出されました。そのように私達にも神は、自分の苦しみを神が大逆転を行う場として差し出すように求めておられるのです。

 しかしそれは人間にとってそう簡単なことではありません。とても自分の力だけではできません。イエスも十字架の前にゲッセマネで血の汗を流すように祈られました。パウロは「そんな時、弱い私達を霊が助けてくれる」と言うのです。たとえ私達の口からうめきしか出て来なくても、なんと祈ったらいいかわからない時も、聖霊は私達のうめきさえ、ふさわしい形にして神にとりなして下さるのです。私達が祈れない時は聖霊にゆだねればいいのです。すると神が私達のうめきの中から祈りにさえ答えて「万事を益として下さる」のです。神は良いことだけでなく苦しいことも何もかも万事を益として下さるのです。私達がこの神に信頼するならば、自分の苦しみを神のみ業の表れる場として差し出すことができます。そのために祈ります。「私達を苦しみの時こそ神に信頼し、神から離れない者としてください」この時、私達は主の十字架に与る者とされるのです。

 

礼拝(6/18)説教片々    

   

  「目に見えないものこそ希望」    

       ローマの信徒への手紙 8章18~25節

 パウロは生涯多くの苦しみを経験した人です。しかしこの彼が「現在の苦しみは将来私達に現わされるはずの栄光に比べると取るに足りない」と言うのです。彼は自分の弱さのきわみの中で、十字架の上で苦しみを味わい尽くしたキリストを見い出したのです。キリストが共におられるならば、私達は神に見捨てられてはいないということです。そしてこの神が必ずいつか私達の上に栄光のみ業をなして下さるのです。

 彼の言う栄光とは、終わりの日の救いです。今は不完全な神の子である私達が、完全な神の子とされる日です。実はこの日を天地万物すべての被造物が待ち望んでいます。天地創造の時、すべての被造物は人間に仕えるよう神に命じられました。ところが人間だけがアダム以来神に逆らい、罪の奴隷となったのです。他の被造物はその時から仕える対象を失い、虚無とうめきの中にいるのです。そして人間も様々な苦しみの中でうめいています。今全被造物がうめきの中にいるのです。しかしパウロはこのうめきを絶望とは言いません。「産みの苦しみ」と言うのです。産みの苦しみには必ず終わりがあります。そしてそこから希望が生まれて来るのです。私達の希望は目に見えるものではありません。終わりの日、私達が完全な神の子とされ、すべての苦しみから解放され、全被造物が救われる日の希望です。私達はその日を忍耐して待ち望むのです。神は決していつまでもがまんさせる方ではありません。

 

 子どもの日・花の日合同礼拝(6/11)説教片々    

   

  「紫布の商人リディア」    

       使徒言行録 16章11~15節

  もともとキリスト教の迫害者だったパウロは、復活の主と出会って福音を伝える伝道者に変えられました。しかしかつての仲間から激しい迫害を受けるようになったパウロは、異邦人に伝道する旅に出ます。でもその伝道もなかなか進みません。ついにトロアスの港まで来た時、彼は一つの幻を見ます。幻の中で一人の男が、「マケドニアに来て私達を助けて下さい」と言うのです。そこでパウロ一行は海を越え、この男を捜す旅に出ます。

 やってきたのはマケドニアの国フィリピの町でした。そこでパウロ達が出会ったのは紫布の商人リディアという女性でした。彼女はパウロからイエスの十字架と復活の出来事を聞き、神の子が人間の罪のために身代わりに死んで下さったことを知って神の愛の大きさに初めて触れたのです。その大きな喜びの内に彼女はイエスを救い主と信じます。更に自分の家を解放してパウロ達の伝道の場としたのです。こうしてリディアから始まって彼女の家族、召し使い、友人、町中の人々がどんどん救われていき、ついに彼女の家はフィリピの教会となったのです。

 さてあのパウロの幻の中に出てきた男とは一体誰でしょう。彼の願いは、「私達を助けて下さい」というものでした。この町で救われた人というのは、この町の多くの人々です。あの幻の中の男とは、この町のすべての人なのです。今、私達の町にも救いを求めているたくさんの人がいます。私達もこのリディアのように、その人々にイエス様を届ける人となりましょう。

 

ペンテコステ合同礼拝(6/4)説教片々 

 

光にうたれたサウロ

     使徒言行録9章1~9節 

 聖霊は神の息とも言われ人間の目には見えません。しかしその力は絶大なものです。一人の人間の生き方を180度変えてしまいます。偉大な伝道者と言われたパウロも、かつてはキリスト者を迫害する先頭に立っていました。彼は、「イエスなど救い主のにせ者だ」と信じて疑いませんでした。ところがある日突然、目映い光に照らされて道に倒れます。そして光の中から復活のイエスの声を聞きます。彼は3日間目が見えなくなりました。この3日間、彼は自分の犯した「神の子を迫害した罪」に恐れ慄きます。

 ところが3日目にアナニアというキリスト者が彼の所に来て祈ってくれたのです。「イエス様が私をここにお遣わしになりました。イエス様こそ真の救い主です。見えるようになりなさい。聖霊に満たされなさい」。すると彼の目から「うろこのようなもの」が落ちて、もと通りに見えるようになったのです。この日から彼はイエス様を真の救い主と信じ、人々に伝道する人となりました。

 この「うろこのようなもの」とは何でしょうか。一つだけ確かなことは、パウロの目にそれが入っていた時は、「イエスはにせ者だ」思っていましたが、それが取れた時、「イエスこそ真の救い主だ」とわかったことです。この「うろこのようなもの」が私達に、イエスこそ救い主であることを見せなくさせているのです。これを取るには、「聖霊よ来て下さい」と祈ることです。その時私達の人生は180度変わるのです。

 

礼拝(5/28)説教片々 

 

私達は神の子ども              

     ローマの信徒への手紙8章12~17節 

 パウロは、「信仰者には神の霊に従って生きるという義務がある」と言います。ここでパウロは「肉に従う生き方」を戒めていますが、決して「禁欲的な生活をしろ」と言うのではありません。肉に従う生き方とは、自分の中心が「我」になった自己追求だけを人生の目的とする生き方です。彼は、「肉に従う生き方は死に至る」と警告します。この死とは単に肉体の死だけではなく、「自己追求していることすべてが無に帰する」ということです。では「神の霊に従って生きる」とはどのような生き方なのでしょう。

 神はかつてイスラエル民族を、40年の荒野の旅の間中、雲の柱・火の柱をもって導かれ、目的地カナンへ連れ帰りました。荒野の旅には常に試練がつきまといましたが、彼らは常に神に守られて過ごしました。この40年を通して彼らは、神に従って歩めば何も恐れはないという信仰を与えられたのです。今パウロは、「あの40年の荒野の旅に戻ろう」と言うのです。私達は旅人です。この世に定住の地はありません。目的地は天の国だからです。しかし荒野の旅には試練が次々おこります。でもおじ惑うことはありません。むしろこの旅で、私達の信仰は成長させられるのです。私達は試練の度に、「アッバ、父よ」と神に叫ぶ者とされます。その時神は必ず力を与えて下さいます。忘れてはならないのは、キリストが私達の重荷を負って下さったように、この旅の間、私達も隣人の荷を担いながら歩む事です。この時私達は神の相続人に、ふさわしい神の子とされるのです。なぜなら、このように生きる私達の中心は「我」ではなく「神」とされているからです。

 

 礼拝(5/21)説教片々     

     

   

  「霊の思いは命と平和」    

      ローマの信徒への手紙8章1~11節

 パウロは、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と言っています。イエスが十字架につけられた時、その左と右に二人の犯罪人が十字架につけられました。一人は最後までイエスをののしり続けましたが、もう一人は自らの罪を認め、イエスに「み国にお出でになる時には私を思い出して下さい」と願いました。するとイエスは、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と答えられたのです。彼こそパウロの言う「キリスト・イエスに結ばれ、罪に定められない人」なのです。

 実はこの二人の犯罪人は、私達人間すべての姿です。神はこのような罪ある人間を救おうと、み子イエスをこの二人の間に置かれたのです。人が救われるためにすべきことは、彼のように自らの罪を認め、イエスに救いを求めるだけでいいのです。その時人はキリストと結ばれ、その受けるべき死の判決はもはや私達に降ることはありません。すでに十字架でイエスの上に執行されたからです。

 このようにして救われた者の歩みは、「霊に従う歩みである」とパウロは言います。それは全く罪を犯さない人間になるということではありません。「自分の罪が見える」。これは信仰者になる前は、「失敗と挫折」でした。しかし霊の目で見たら「大進歩」なのです。十字架にかけられた犯罪人は、「罪が見えた」から救われたのです。信仰者は、すべてのこと「罪が見えたこと」さえ主に感謝するならば、その人生は霊の支配下にあるのです。

 

 礼拝(5/14)説教片々    

  罪のとりこ       

  ローマの信徒への手紙7章15~25節 

 イエスは、「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太が見えないのか」と言われました。ユダヤ教徒であった時のパウロは他人のおが屑がよく見えたが故に、キリスト者迫害に熱心でした。ところが復活の主に出会ったとたんに、自分の目の中の丸太、自分の罪が見えたのです。キリスト者迫害こそ神の最も悲しまれることでした。彼は、「自分は罪のとりこ、善をなそうとしてもできない。何と惨めな人間でしょう」と悩むようになります。

 しかし自分の目の中の丸太が見えることこそ、信仰の第一歩です。ではどうしたらこの丸太を取り除けるのでしょう。パウロはもはや「自分の力で除ける」とは言いません。自分の罪の丸太の余りの太さ重さに、「だれか助けて!」と叫ぶしかなかったのです。しかしこの叫びこそ彼を救う唯一の道でした。彼の叫びを聞き、彼の身替りに彼の罪の丸太を引き受けて下さったのが、自分の迫害していたキリストでした。イエスの十字架の本当の意味を知ったパウロの驚きと喜びは測り知れないものです。ゆえに彼は、「私達の主イエス・キリストを通して感謝します」と言うのです。

 しかし救われた後も、彼は罪のとりこになっている自分に気付きます。しかしパウロは、「キリストの救いとは完璧に正しい人間を造ることではない。自分に良い所があれば神の賜物として感謝し、悪い所があればそんな私を愛して下さる神に感謝しよう。その時人はキリストの香を放ち、神に栄光を帰す者とされる」と言うのです。

 

礼拝(5/7)説教片々  

     行く先は永遠の命 

                                                                                                           ローマの信徒への手紙 6章15~23節

 人は常に死を自覚して生きなければなりません。今日の聖書にも死が何回か出てきます。しかしここで言う「死」と、私達が普言う「肉体の死」とは全く違います。16節に『罪に仕える奴隷となって「死」に至るか、神に従順に仕える奴隷となって「義」に至るかどちらかです』とあります。ここで「死」の反対語は命ではなく、「義」となっています。「義」こそロマ書のメインテーマす。ですから神に義とされない人は、たとえ体は元気でも死んだも同然ということです。聖書の言う死とは単なる肉体の死ではなく、もっと奥深いものなのです。

 人間は神か罪かどちらかの奴隷になっています。でも最初から罪の奴隷になりたい人などいません。でも気がつけば、いつの間にか神に喜ばれないことをして罪の奴隷になっているのです。それは人間の心が弱いからではなく、心が強いからです。私は神に頼らなくても自分の力でがんばれば何とかできると思うのです。がんばるは「我張る」です。そこでの中心は「我」であっ「神」ではありません。サタンはこの時を待っています。そして一人でがんばって力尽きた人を絶望へと誘います。これが最も恐ろしい「心の死」です。「がんばりすぎないこと」。パウロが言いたいのはこれです。「あなたの中心に『我』ではなく『神』を置きなさい。その時あなたは神に義とされ、死から解放される。」私達の肉体は必ず滅びます。しかし神に義とされた者は、この世あって決して絶望せず、そしていつか永遠の命によみ返るのです。

 

礼拝(4/30)説教片々          

 罪に死に、キリストに生きる

          

ローマの信徒への手紙 6章1~4節

 「罪の増し加わった所には恵みが一層満ちあふれます」と言うパウロの言葉に対して、「いっそ恵みが生じるために悪をしよう」という人々が出てきました。この身勝手な理屈は、キリストの救いの本質がわかっていないからです。パウロは、「罪に死んだ私達がなお罪の中に留まろうとするだろうか」と問うのです。「罪に死んだ私達」ここにパウロの重要な福音理解があります。 キリストによる罪の赦しとは、私達が罪を犯す度ごとに罰の免除を与えるといったレベルのものではありません。人間はこの世に生きる限り罪を犯すしかない弱い存在です。罪を犯さない人間になるには、死ぬしかないとパウロは言うのです。でもこれは本当に命を絶つことではありません。パウロが見いだした神の驚くべき救いのみ業とは、神がこの弱い人間を憐れんで下さり、罪に支配されたこの世に死ぬための道を備えて下さったと言うことです。それが洗礼です。洗礼は単なる入会の儀式ではありません。それはキリストと結ばれるためであり、同時にキリストと共にこの世に死ぬことです。死んだ人間だけが罪から解放されるのです。そして私達がキリストの死と結びつけられる時、私達はキリストの復活の命に与るのです。これこそがキリストの救いの目的です。ですからパウロは、キリストと共に罪から逃れるために死んだ人間が、なおも罪の中に留まりたいとは決して願わないと言うのです。

礼拝(4/23)説教片々

   恵みの支配

    

    ローマの信徒への手紙5章19~21節

 パウロは、罪が死によって人間を強く支配していると言います。今も罪の力は強く、容赦なく子供から高齢者まで支配しています。愛する子供達をどう育てたら、罪を犯さず正しい人間にできるのでしょうか。まず大人が考えるのは、もっと厳しくすべきだということです。規則こそ人を正しくする唯一の道だと。まさに律法主義です。しかしかつて、律法学者であったパウロは、律法主義は完璧ではないというのです。彼は罪の起源は最初の人間アダムの時からであり、それ以後すべての人間が死ぬことになったと言うのです。アダム以後すべての人間が、自分で自分をどうすることもできない弱さを抱いています。人間の心には穴があるのです。その穴が深くなった時、たとえ罪を犯してでもその穴を埋めずにはおられなくなります。人の心をつき動かすように迫って来る罪の誘惑は規則等では太刀打ちできない程強いのです。罪を犯さぬ人間を育てるためには、先ずこの穴を埋めることです。

 神はちゃんとその道を備えて下さいました。この人間の深い心の穴を埋められるのは、神の愛以外にありません。私達まず心の穴を神の愛で満たして頂くのです。イエスの十字架が私のためであったと知る時、私達の心の穴に神の愛がどんどん注がれます。パウロが「罪が増したところには恵みはなおいっそう満ちあふれる」と言うように、心の穴が深ければ深い程、神の愛で一杯満たされるのです。これが神の恵みです。この時人は初めて罪の誘惑に勝つ者とされるのです。

 

 

 

 先週イースター合同礼拝(4/16)説教片々    

  復活は向こう側から    

        マタイ福音書 28章1~10節

 イースターはうれしい春のお祭りです。でもこのすばらしいイースターは、悲しい出来事で始まりました。イエスは十字架にかけられて死なれ、墓に葬られました。それらを見ていた女性達は、ただ泣くばかりでした。家に帰った彼女達の心の中は真っ暗でした。「もうすべてが終わってしまった。神様なぜあなたはイエス様を見捨てられたのですか。どうして私達を見捨てられたのですか」という思いが心の中で渦巻いていました。それでも彼女達は日曜の朝、墓へ行きます。すると突然、復活が向こう側からやって来たのです。まず大地震が起こり、次に天使が現れ彼女達に言いました。「イエスは復活なさったのだ」。彼女達がこれを皆に知らせようと走っていると、突然目の前に復活のイエスが現れて言いました。「おはよう。恐れることはない。行って弟子達に伝えるんだ。『ガリラヤで会おう』と」。彼女達は急いでこの言葉を弟子達に伝えました。するとイエスの言葉通りガリラヤに帰った弟子達を復活のイエスは待っていて下さったのです。私達も時々、「なぜ、どうしてこんなことが起こるの。神様私達を見捨てたの」と思う時があるかもしれません。でもそうではありません。復活のイエスは向こう側から来られるのです。イエスはガリラヤで私達に会って下さいます。私達のガリラヤ、それは神様のお話を聞く教会です。自分のガリラヤがあることは嬉しいことです。そこで復活の主は私達を必ず待っていて下さるのです。

 

 

礼拝(4/2)説教片々  

ペトロの挫折 

   

    ヨハネ福音書 18章15~18、25~27節

 かつてペトロはイエスに、「あなたのためなら命を捨てます」と誓いました。これは彼の本心でした。その通り彼は敵陣である大祭司の庭に入ります。しかしそこで彼は、大祭司の家の女中や下役から「イエスの弟子ではないか」という追求にあうのです。彼はそれをかわすため、とっさに「違う」と3度も言います。そのとたん鶏の鳴き声と共に、イエスの予告通りイエスを裏切った自分に気付きます。これは彼にとって人生最大の挫折でした。その時それまでの確固たる自分への自身が崩れて行ったのです。

 この話の元になったのは彼自身の告白です。彼は後の教会にとって、第一級の指導者でした。そんな人が自分の過去の失敗を人々に語るのは、勇気がいります。彼がこんな情けない自分の姿を語るのにはわけがあるのです。彼はこの失敗を通して、信仰とは人間がすべてを失った所から始まるということを知ったからです。ペトロはこの挫折の後、自力で立ち上がったのではありません。イエスが約束した聖霊が来て下さることを祈り続けました。そしてついにペンテコステの日、彼の上に聖霊が降りました。その時彼が知ったのは、「イエスの十字架は自分のためであった」ということです。かつてペトロは「イエスのために命を捨てる」と言いました。しかしそれをできない弱いペトロのために、「イエスが命を捨てて下さった」のです。このイエスの深い愛に触れた時、彼は喜びの内に立ちあがります。もはや自分の力ではなく、イエスに罪赦された者として喜びをもって伝道したのです。
 

 

礼拝(3/5)説教片々    

ナルドの香油    

 

ヨハネ福音書12章1~8節

 ユダヤ最高法院がイエスを殺すことを決定した後、エルサレムでは過越しの祭りが近づいていました。

  イエスは命の危機も顧みずエルサレム近くのラザロの家におりました。このナルドの香油の出来事は、十字架を間近にしたイエスの最後の明るい出来事です。この家でラザロの姉妹マリアがイエスの足にナルドの香油を注ぎます。この香油は非常に高価で300万円もの価値がある物でした。これを見た弟子達は、「これを売って貧しい人々に施した方がかった」と彼女を非難します。これが常識です。しかし彼女の常識はずれの行為は、イエスへの愛から出たものです。一度死んだと思った兄弟がイエスによって生き返ったのです。そのイエスへの全幅の信頼と感謝をもって自分自身を献げる思いで高価な香油を注ぎました。この時イエスは弟子をたしなめ、彼女の愛をしっかり受けとめてくださいました。さてマリアがイエスの足に香油を注ぎ自分の髪の毛でその足をぬぐったということは、彼女はイエスの足を洗ったということです。何という高価な洗足でしょう。そしてイエスは数日後、弟子達の足を洗います。まるでマリアに習ったかのようです。でもこれはイエスが弟子達の罪が赦されるためにご自分の血をもって弟子の足を洗うに等しいことでした。マリアの300万円の洗足をはるかに凌ぐ高価な洗足です。このように主イエスは、私達が献げる愛に対し、それを凌ぐ愛を私達に注いで下さる方なのです。

 

 

 

礼拝(2/26)説教片々    

 不信心な者のために死なれた神 

   

     ローマの信徒への手紙5章6~11節

 東日本大震災から6年がたとうとしています。被災地を撮り続けた写真家が言いました。「この震災を未曾有の出来事と言うなら、それに対して未曾有の物言いが用意されねばならない」。まさにその通りです。この聖書のことばこそ「未曾有の物言い」なのです。

 パウロはユダヤ教の時から「神を誇り」にしてきました。しかしイエス・キリストを通して知った神は、それまでの彼の想像をはるかに越えるお方でした。彼は、「キリストは不信心な者のために死んで下さった」と言います。正しい人のために死ぬ人はいません.善い人のために死ぬ人はいるかもしれません。しかし主は不信心な者のために死んで下さったのです。パウロはキリストを通して不信心な者の存在を認めて下さる神の愛に初めて触れたのです。神の愛というのは、人を愛する動機を相手の中に持たないのです。人間の中に不信仰や罪しか見い出せない時も、私達の側に立っていて下さり、人が信じようと信じまいと存在するお方なのです。

 そのしるしが「キリストの十字架の死だ」とパウロは言います。神の愛は混沌や絶望でこの世が覆い尽くされたとしても、十字架の上に歴然と輝いているのです。この神の愛には未曾有の力があります。神はこの十字架で死んだみ子に復活の命を与えました。この時神はみ子の復活を通して、この世に新しい神の国を造り、私達に永遠の命を与えると宣言されたのです。これこそ天地始まって以来の「未曾有の物言い」なのです。

 

 

 

礼拝(2/19)説教片々    

  神との平和

 

ローマの信徒への手紙 5章1~5節

 5章から第Ⅱ部に入り、神に義とされた人間の現実の生き様に話が移ります。人は自分の人生で何を持つ事が一番幸せでしょうか。パウロは、「神との間に平和を得ることだ」と言うのです。かつての彼はキリスト者迫害に狂奔し荒れ狂っていました。その彼が復活の主と出会いキリストによる罪の赦しに与ったとたんに、キリストへの敵意は跡形もなく消え、生涯人に仕える愛の人になったのです。これは彼が努力して得たものではなく、神との間に平和を得た結果なのです。彼はキリストによって変えられた自分の人生を振り返ってこう言います。「苦難をも誇りとしす。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むことを知っています」。私達は人前に良いことは誇りにしても、苦難を誇ることはしません。むしろ避けたいのです。パウロは決して自分の力で苦難に耐えよと言ってはいません。彼のキリスト者としての人生は苦難の連続でした。彼には何もできません。しかし彼はその中でひたすら祈り、神を賛美しました。すると不思議に、聖霊により平安が与えられ、何度となく助け手が与えられたのです。彼はこの「神の恵みの力」によって、苦難は忍耐に、忍耐は練達に、練達は希望に変えてゆくことを知ったのです。ここでの主役は「神の恵み」です。希望は私達を欺くことはありません。聖霊によって私達の心の中に神の愛が注がれているからです。神の愛とは神の一部ではなく、神ご自身なのです。神はご自身を私達に与えて下さるのです。 

 

 

 

礼拝(2/12)説教片々    

     信仰によって実現される約束    

 

ローマの信徒への手紙4章13~25節

 

         村松武司  

 パウロは「ローマの信徒への手紙」において、人類はユダヤ人たると異邦人たるとを問わず、一人残らず神の前に罪があるということから、彼のキリスト教弁証論を説き起こす。それなら、人はどうしてその罪から救われるか。それは「信仰」によるのだとパウロは言う。そしてその証明・裏づけとして、旧約からアブラハムの生涯を例に引く。

 アブラハムの信仰は素朴であり、自然であるように思われるが、その生涯には少なくとも三度、信仰の危機があった。生まれ故郷のハランからカナンに向かって旅立った時。100歳にもなって男子が生まれると告げられた時。そしてそのようにして得た息子イサクを捧げるよう命じられた時。アブラハムはこれらの厳しい試練を神への深い信頼によって乗り切った。

 パウロはアブラハムのことを述べながら、そこに自らの生涯を重ねているように思われる。イエス・キリストが復活・昇天された直後、彼を神の子・救い主と信じる信仰が広がりつつあった時、エルサレムで少壮の律法学者として名をなしつつあったパウロには、それは狂信であり、異端であるとしか考えられなかった。その彼が、信徒の迫害に向かったダマスコ途上で、復活のイエスに出会って回心を遂げ、キリスト教の伝道者となる。あり得ないことを可能とする神の力を、彼もアブラハムと同じように信じたのである。

 最後に、私の入信の経緯を語って証とした。

 

 

 

礼拝(2/5)説教片々    

  神があなたを信じて下さる    

 

      ローマの信徒への手紙4章1~12節

 パウロは福音を受け入れないユダヤ教の人々に対して、旧約聖書の中からアブラハムを取り上げて説いてゆきます。ユダヤ人はアブラハムこそユダヤ教の始祖だと信じています。その根拠は創世記26章にある、「アブラハムは私の戒めや命令を守った」という神の一言です。しかし創世記12章で、彼は妻を妹と偽って失敗を犯します。しかしこの失敗の後、創世記15章で、神はアブラハムに言います。「あなたの子孫は星の数のようになる」「アブラハムは信じた。それが、神に義と認められた」。ここで大切なことは、アブラハムはただ「神を信じた」のです。これだけで神がアブラハムを信じて下さり、「彼を義と認められた」のです。創世記15章は、ユダヤ教がよって立つ26章よりずっと前にあるのです。即ちユダヤ教の始祖アブラハムは、完全で罪を犯すことがないから神に義とされたのではなく、一方的な神の恵みによって神に義とされたのです。

 さらにパウロは割礼にも言及します。ユダヤ教は割礼を受けた者だけを神は救って下さると信じています。しかしアブラハムは創世記15章で神に義と認められた後、17章で割礼を受けているのです。神は救いの条件として割礼を定められたのではありません。それは救いのしるしにすぎません。こうしてパウロはユダヤ教の二本柱である律法順守と割礼を倒してしまったのです。ですから今や私達は、神の一方的な恵みを受けて割礼なしで救いの内に入れられているのです。